【聖書の基本】羊

2020年2月16日

羊飼いという人々が、長閑な牧歌的雰囲気を醸し出す存在ではなく、力強く野蛮で無教養という部類であったであろうこと、また、都市とは無縁で安息日も守れないとして、律法至上の社会では底辺層に位置する、被差別者たちであったであろうこと、こうしたことについては以前お知らせしました。
 
今回は彼らの飼う「羊」そのものです。羊を指す語のひとつは、基本的に「群れ」を意味する語からできており、そもそもが群がっている家畜を指していたであろうと思われます。しかし牧畜文化においては、羊は大切な資源でもあったので、それらを指す言葉は多岐にわたっています。ちょうど水資源が豊かな日本において、雨を表す語が実に様々あるのと同様です。
 
アダムの子アベルの時代から羊を飼うなどという表現があったほど、人間とのつきあいが古い動物であったと考えられています。ヤコブがラバンの家を出るときにも、多くの羊を半ば騙し取るような仕方で連れ去りました。ヨセフと会うためにエジプトに出て来たそのヤコブが、エジプト人の嫌う羊飼いであることをつい漏らすところも、私たちは見ました。
 
食糧としてはもちろんのこと、衣服や生活の道具様々な場面で羊は用いられ、また、神を礼拝するときの献げ物としても必要とされていました。産まれて一週間後に殺されるという雄羊もたまったものではありません。果たして本当かどうか知れませんが、ソロモンが神殿を建てたときの、いわゆる献堂式のような儀式においては、12万頭の羊が献げられたなどといいます。この血なまぐさい文化を嫌悪する向きもあるでしょうし、また、動物をいわばどんどん殺すということに対して、私たちは心に咎めを覚えることもあるかと思われます。その文化を継承したのか、それとも元々そのような文化であったのか、単純には決められませんが、狩猟民族系のヨーロッパの文化では、動物は人間のために神が与えたものであって、その生殺与奪の権利は完全に人間にあり、殺して何が悪い、というふうに見えることもしばしばあります。但し、そんな情緒的な文句を言ったところで、私たちも日々肉を食しているのであって、いろいろな動物について似たようなことをしていることに違いはありません。
 
羊は性格的におとなしく、荒々しく振る舞う山羊と区別されました。時折教会の説教で羊は目が見えにくいなどとも言われますが、逃げる立場の草食動物に共通な性質として視野が広く、敵の襲来を発見しやすいようになっているはずです。ただ、立体視がどこまでうまくできているかは難しいようです。羊は群れやすい動物ですが、それは敵の危険があるところであろうと思われます。とにかく狙われる動物だという前提で生きているわけです。とりあえず誰か仲間についていれば、単独でいるよりも危険性が減るということで、ぞろぞろとついていくのかもしれません。こうして考えると、日本社会の日本人も、なんだかそんなふうであるように見えて来ます。
 
迷いやすく弱い者として、羊は人間に比せられることがよくあります。「迷える子羊」というわけでしょうか。それで、羊を率いる羊飼いが、イスラエルのリーダーに喩えられ、預言者はそれに失格の烙印すら押すようになりました。そこへ、良い羊飼いとしてのイエス・キリストが、新約聖書で強調されるようになったのです。



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