主語と福音
2020年2月10日
新型コロナウィルスのニュースがここのところニュースの大部分を占めるようになっています。マスクが不足しているというのは、そもそも毎年普通にマスク生活をしているわが家にも影響はあります。自分の不注意で感染症に陥ると、多大な被害を与えるような仕事にいる手前、手洗いはもちろんですが、可能なかぎり衛生には気をつけるようにしているのです(実はマスクによって喉を乾燥から守るという利点もあります)。こういうとき、医療従事者が家にいると、助かります。衛生観念を教えてもらえるからです。しかしその医療機関の分までマスクやアルコール消毒液が供給できないとなると、これは多くの人の命に関わる問題だと言えます。あまつさえ、投機目的で買い占めている輩もいるなどと聞くと、これは他人の命を自分の金にしようと企む、酷い罪業だと言わざるをえないとまで思います。
アメリカはアメリカで、この新型ウィルスでなく、インフルエンザでとんでもない人数の死者が出ているという報道があり、驚きます。歴史上、ペストはローマ帝国でも数百万の死者と考えられるほどのものがあり、ヨーロッパでも14世紀の惨劇がありました。スペイン風邪と呼ばれた百年前のインフルエンザもありました。これらによる死者は億を数えたのではないか、とさえ言われています。
昨今の報道を聞いていると、しばしば、罹患者が「確認された」というような言い方がなされています。これで私たちは驚いたり軽快したり、あるいは不安を懐いたりします。けれども、「確認された」ということばかりでよいのでしょうか。いったい、誰が確認したのでしょう。誰かが確認しなければ、「確認された」ことにはならないはずです。そう、現場の医療従事者です。中国でもそうですが、現場の医療従事者が、命を張って、患者に接し、ウィルスを確認しているのです。この人々の苦労とリスクについて、報道を聞く私たちは、どれほど意識し、また感謝しているでしょうか。それが「確認された」の言い方では、全く消されている、と言われても仕方がないのではないでしょうか。
それは、たとえば東日本大震災における原子力発電事故においてもそうでした。放射能が「測定され」、「確認された」のような報道ばかりですが、いったい誰が測定し、確認していたのでしょうか。この3月に封切られる映画「Fukushima 50」はその人々の姿を描いています。
聖書では、そうした受身の表現についてよく、隠れた「神」という行為の主体があるのだ、という説明がなされます。「神」を持ち出さなくても、なされたことは神がしたのだ、という理解は、聖書の思想に適っていると言えるでしょう。しかし、ウィルスも原発事故も、神が確認したのではありません。人が、したのです。誰かある人ないし人々が、という主語がそこに必ずいるのであって、それを省略することによって、私たちは、実際に人が労苦し、命を張っていることにも、無頓着になってしまいがちです。「誰が」という点を私たちは想像力で補って、報道でもなんでも、対処する姿勢が求められる、と言えば大袈裟でしょうか。
「誰が」を表す語は、日本語にはなくても構わない場合が多々あります。ギリシア語でもかなり略せますが、その後のヨーロッパ系の言語では主語なしでは文が成り立たなく場合が殆どとなりました。これを「主語」と言います。学校においては、小学校の前半で、すでに「主語と述語」についての学習を始めます。助詞の「は」は必ずしも主語のためにあるのではないため、日本語は果たしてこの主語とか述語とかいう振り分け方に馴染むのかどうか疑念もありますし、中には「主語」などという考え方を日本語から撤廃すべきだ、と主張する学者もいますけれども、学習上は比較的すっきりした学び方をしていくことになります。英語などを学ぶ上で、この「主語と述語」という捉え方は確かに役立つのです。
英語でいうなら、「主語」は「subject」。中学英語でこれを最初に学ぶときには「教科」と訳します。「主題」や「話題」、さらには「臣民」といった意味にも使われる、守備範囲の広い語です。幅広い意味を有つようになった理由は、その語の成り立ちが非常に抽象的であるからでしょう。「〜の下に+置く」のような意味合いの語を組み合わせた成り立ちであり、ラテン語の部品からできています。
面白いのは、「object」の成り立ちも、「〜に対して+置く」と、さして違わないような感覚で作られているということです。それが文法的になると、「subject」は主語となり、「object」は「目的語」を表すという点が面白いと思います。きっとこのあたりは、碩学による定説があるのでしょうが、私はその辺りについては無知です。
「subject」に戻ります。「〜の下に+置く」ことから、何者かに「従う」という感覚がこの語のベースにあると思われますが、実は文法的に「主語」の意味で使われているのは、ラテン語に先立つギリシア語から来ているものと見られています。これらの要素をギリシア語に戻すと、アリストテレスが言葉や論理について論ずる時に用いた「hypokeimenon(ヒュポケイメノン)」をラテン語表記にしたようなものであるというのです。ギリシア語的要素からしても、「〜の下(基)に置かれたもの」という響きなので、これが様々な変化するものの根底に横たわって変化しないものを意味するものだとアリストテレスは言いました。「実体」などと、いろいろ検討しなければならない概念がさらにありますが、様々に変化しうる「述語」とならない、動かざる「主語」がそれだという理解がここでなされています。
こうなると、日本語のように、「自然とそのようになる」という世界観をもつ言語に、これがそぐわないことはすぐに感じられることしだろうと思います。日本語には「なる」という言い方が多用されます。誰かが責任をもって、つまり自分全存在を懸けてこれを行ったというような行為論は薄く、なんとなく自然にそのようになっていった、誰にも責任はない、という捉え方が、それこそ自然なのです。だから簡単に「水に流す」ことができます。
究極の「主語」が神であると推論していく道筋ができていくことは、明白でしょう。人間のように変化するもの、死すべきものが、不変の実体である「主語」になることはできませんから、そのような存在として、神こそが相応しいということになります。このとき、文法的な意味と区別するために、日本語訳では同じ「subject」を「主体」と訳して、行為に関するおそらく人格的な存在を想定するときには、「主語」とは言わず「主体」と呼びます。しかしこれらはどちらも英語なら「subject」です。
それ故に、「自然とそのようになる」文化においては、自由と責任を有する「主体」という捉え方が薄い、というか全くない、とも言えます。助動詞「(ら)れる」には周知のように「受身・尊敬・自発・可能」の四つの用法があると学校でも習いますが、これらの意味は本来「自発」からすべて派生したものと見られています。「自発」とはまさに「自然とそのようになる」ということで、「昔のことが偲ばれる」のような用法です。ここから、そのように受けること、それは尊敬すべきもの、それが可能になるもの、という意味合いへと拡がっていったと考えられるのです。ここには、実体的な「主体」なるものを想定しない文化が歴然としています。
このように、なんとなく自然に「なる」思想背景があって、行為する主体に責任があるという考え方を異質のものとするところでは、罪に対して責任をとる購いなどという考え方が全く馴染まないのは当然なのです。そもそも罪があるときに、それを何らかの形で誰かが責任をとって始末をしなければならない、という発想がないわけですから、キリストの十字架も、何か悪いことをしたから当然のことだ、で終わるか、せいぜい、悪いことをしていないのに気の毒だ、という程度の出来事にしか見えないことになります。
あるいはまた、罪の主体、主語なる存在の緊迫した立ち位置を避けたくなる思想も出てきます。無条件ですべての人は救われるのだ、というような角度で聖書の中にその根拠を探すというあり方です。神はすべての人を救っていてもなお裁きがなされる、という言い方は人間にとり自家撞着となるので、そのまま裁きの方を無視していくという場合もあるようです。聖書は様々な側面をもっていますから、人が先に説を立て、その理由を聖書の中に見つけることは、ひどく難しいものではありません。また、聖書のテクスト自体にどれほどの信用性やそれに寄り掛かることの意義を認めるかといった問題もそこに関わってくるので、聖書を対象化すればするほど、人間が恣意的にそれを用いるという可能性を常に警戒していなければなりません。心理的に、日本人は、厳しい白黒の判定を避けたいと思い、灰色に曖昧にしておくか、玉虫色の解釈に留めるかということを得意としています。神学であれ信仰であれ、判断する自分自身の性質を捨象して、説そのものの出自を問わないでいると、筋道が通ったように見える説明が、どんどん道を逸れていくという可能性を警戒したいと思います。
この日本的な文化の中に住んでいるとはいえ、不条理だと思うようなことも世の中にはあります。それをヨブのように徹底抗戦の構えで一歩も引かずに論ずるというようなこと、そんなことにエネルギーを費やすことも、おそらくしたくはないでしょう。どうせ少々あがいても、世の中がそのように「なる」のであれば、その流れに逆らうことはできません。よくない意味での諦観が「知恵」だと見なされ、それを「仕方ない」(博多なら「しよんなか」)と受け流すことによつて、また黙々とできることをやり続ける、それが人生なのだ、と賢者は告げるのです。
誤解のありませんように。だから日本語がダメだとか、日本人は云々、などと言いたいわけではないのです。感情の細やかさや、主語なしでそれと覚るような心の動きを、こんなにも美しく表現する言葉も珍しい、と感動することもあるからです。人がいて、神がいて、人には罪があって、神がそれを赦して、その救いはいまここから永遠のものになる、そのような聖書の教えを、私たち日本人は、同胞に対して、日本語で伝えようとしますし、説明をします。しかし、その言葉も、聞く側の受けとめ方も、主語のない世界で、主体が透明になった理解の仕方で、届くしかないのであって、そのとき果たして、その言葉が「福音」となりうるのであるかどうか、この原理的な部分から、考察をする必要があるのではないか、と言いたかったのです。ただ、その福音が、「異なる福音」であってよいのかどうか、そこは慎重に検討しなければなりません。パウロからそのようにレッテルを貼られたものが、もしかすると今新約聖書のどこかに市民権を得ているかもしれないので、これはパウロに反するという意味ではなく、確かに聖書一般が神の意思として私たちに届けられるべきであったものと、実は違うものを福音だとして詐称していないかどうか、気をつけよう、ということです。