【メッセージ】僕は今どこにいるのだ?
2020年2月9日
(ヨハネ8:12-30)
彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。(ヨハネ8:25)
教会での説教のとき、なにげなくでしょうが「この本はいいですよ」とか「機会があったら読んでみてください」とか言われることがあります。ですが、機会というのは作らなければ生まれません。私は、それを読んでみたい、と思うタイプです。可能ならば、手に入れて、あるいは借りるなどして、読んでみます。語るほうは、読んでほしいと思うから口にするのでしょうが、さて、どこまで本気で誰かがそれを読んでみると思っているのか、分かりませんけれど、案外中には素直に読んでみる人間も、このようにいるわけです。
しかし、いまちょっと触れるものは、読んでね、という気持ちで言うのではありません。村上春樹です。いつノーベル賞をとるのか、と毎年初冬には大騒ぎになる作家ですが、海外で広く受け容れられていることと、ハルキストとも呼ばれる熱いファンが多いことで知られています。でも、生々しい描写が多いので、健全な中高生の皆さんや、敬虔なクリスチャンには、私もお薦めしないことにしています。
村上春樹の初期の名作とされる『ノルウェイの森』は、哀しい話です。愛する女性、と言っていいのかどうかすら分からない関係ですが、その女性を喪い、しかし関係する女性はいたりして、誰を愛してよいのか分からない主人公の男は、最後にはっと気づかされます。「僕は今どこにいるのだ?」
場面もストーリーも分からない皆さんには、これがどんな情況なのかは理解しづらいだろうとは思いますが、今日はこの問いを頼りに聖書から何かを聴いてみようと思います。
ヨハネによる福音書を開いています。聖書の中に福音書には四つのものがありますが、他の3つは、まあ読んでいても似たものがあるなという印象を受けることができますが、このヨハネによる福音書だけは、他とはずいぶん違うものだと誰もが感じる性質のものでありましょう。また編集の上でも錯綜としていて、もしかすると元々の順序が一部入れ替わっているのではないか、とか、ここは後から無理に挿し込んだのではないか、とか研究者が口にするような、曰くつきの福音書でもあります。開かれた箇所にある「再び」もいまひとつ判然としません。こうしたことはよくあるので、場面の設定そのものにはあまりこだわりすぎずに進んでいきたいと思います。
いえ、場面だけではありません。このヨハネによる福音書は独特の神学を含んでいるといわれますので、注釈を入れる方はなかなか大変のようです。一つひとつの言葉の意味をどう解してよいのか、どう説明してよいのか、困惑することがあるわけです。そういうわけですから、当時この言葉をイエスが本当に語ったとしても、それを耳にした人々が果たしてイエスの思惑通りに受け止めたかどうか、極めて怪しいものです。結論から言えば、この箇所も、イエスの言葉を受け容れる人と、理解できないで去っていく側の人とが混在しています。私などは、その場にしても、意味不明と諦めていたかもしれません。それくらい、まともに理解しようとする人をはねつけるものを、このイエスの言葉はもっているように思えます。
でも、諦めないでいきましょう。今日は、この中で、ある角度から見たところだけを拾うつもりです。そこだけ光を当てて、聞き入ることにしましょう。その角度というのは、国語の入試問題の読解でおなじみの、「対比」というキーポイントです。何かを説明するのに、それと違うものを持ち出して、対比させて説明すると、理解しやすい場合が多いと思われます。普通の文章でもそういう配慮から、様々な対比がなされますが、この聖書の箇所でも、二つのものが比べられ、対照的に述べられている部分があります。今日はそこだけを取り上げてみたいと思うのです。
8:14 イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。
「真実」は「真理」と言ってもよいものです。これを旧約聖書の世界でヘブル語として解すると、「アメーン」の語に当たります。キリスト教で「アーメン」という合い言葉が飛び交っていますが、それがここできっちり当てはめられていることになります。果たして自分一人の証言では力がないことが分かっていましたので、この後イエスは、父なる神と2人の証言であるという根拠を告げることになります。しかし対比を見たい私たちは、そこには関わらずに、次のところに注目します。イエスは知っています。「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか」について知っています。他方、これを告げているユダヤのエリートたちは、イエスが「どこから来てどこへ行くのか、知らない」というのです。
ここではイエスの出自と将来が問われていますが、思えば私たち人間の哲学というものも、その根本問題は、この問いでした。「人はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか」。哲学者とまでいかなくても、誰しもが人生を考えるときに、ふと思うテーマではないでしょうか。こうした問いは、誰にも浮かんでくることがある、少なくとも出会うことがあると思われますが、この問いに対する反応にはいくつかのパターンがあります。まず、全く考えようとしない人、あるいは、そんなことは考えても無駄だという見解をもつ人。それから、いくらか考えてみて、すぐさま結論を出してしまう人。なんらかの回答を示さなければならないという気持ちからかもしれませんが、単純に何らかの結果を思いつきで出してしまうのです。するとそれ以上はそのことについて考えなくなります。そしてまた別のタイプとして、ああでもないこうでもないと考える人。その後の人生で、事あるごとに得られる経験から、ひとつの仮説を出してみて、また改めるなどの営みを繰り返す人です。
その点、イエスは羨ましいものです。もう「知っている」というのですから。その点では、ここで問われたファリサイ派の人々のように、「知らない」というほうが私たちの実感に近いような気もします。但しここでは、「人は」でなくて、「イエスは」なので、簡単に比べることはできないかもしれません。
8:15 あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。
「肉」というのは、私たちの感覚でいうと、「人間の考え」のようにしておきましょうか。人間の世界では、問題が起きたときにどちらにすべきか判断をしなければならないとき、それなりの結論を下します。ここでは、法に従って判決を下すというわけで、せっかく神から与えられたというユダヤの律法を、人は神の思いとは違う方向で捉えて、判決を下してしまうのだがそのようなことをイエスはしない、というのです。ただし、
8:16 しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。
というように、イエスが裁くことを否定しているわけではないようです。
8:19 彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」
イエスが父なる神のことを持ち出したので、神についての研究をやり尽くしたと自負しているようなファリサイ派からは、その父とイエスが呼ぶ神は「どこにいるのか」と問いました。「どこに」が気になるようです。思えば、これはクリスチャンが問われ続けた問いでもありました。「神がいるなら見せてみろよ」「神はどこにいるんだい」という問いに、そんなに巧く説明できないのがクリスチャンでした。見えないんだとか、どこにでもいるんだとか言っても、分かってもらえるものではありません。詩編の中にも、かつて同じイスラエルの仲間であった者たちが、今は神を捨て、あるいは他の偶像を拝むようになってから、不幸を身にまとった詩人に向かって、「おまえの神はどこにいる」と嘲笑するようなことが繰り返し記されています。ここでイエスは、そのような意味で問われたわけではないと思われますが、君たちは、イエスなる存在も、神というお方も「知らない」のだときっぱり宣言しています。イエスを知るならば父なる神をも知っているはずだからだ、と説明します。ここで「知る」とは、知識のことでないことは明らかです。聖書で「知る」というのは、人格的な交わりがあることを前提しています。知識や知り合いという程度の付き合いではなく、心の底から信頼し合い、共に生きていくような在り方を示します。これを今では「出会う」と表現することがあります。もちろん、森で熊さんと出会ったようなことではありません。神と出会うということは、神の前にいる自分を痛感し、これまでの自分が間違っていたことに気づかされることであり、そこから自分が変えられるということをも含んでいます。私が神と出会って変えられる。このことは、とても大切なことですから、今はよく意味が分からないという方も、ぜひ気に留めておいてください。
8:21 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」
イエスは去る。君たちは捜す。しかし君たちは罪の中で死ぬ。イエスの行く先に君たちは来ることはできない。このように対比されて責められています。イエスと共にいるべき者たちと、ユダヤ教の指導者たちとの、決定的な分かれ道が用意されます。イエスを前にして、人は、二つの道が常に分かれているようなものなのでしょう。気になって捜すということはありうるにしても、知らない、つまり出会いを経験することがなければ、罪に死ぬ、そしてイエスと共にいることはできない、というふうに対照されています。
8:23 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。……」
この分かれ道は、分かりやすく示せば、「下」か「上」かということになります。地と天ということであるかもしれず、肉なる人間の思い込み一色であるのか、神から注がれるものによってか、という対比でもありましょう。被造物と創造者との対比と見ることも可能です。
このようにして見てくると、イエスを知ることで、道が決定的に分かれていることが見えてきます。悪い道は、罪から逃れられなくなることで、永遠の命とは無縁な、冷たい永遠の死へと流れ落ちていくことになります。ではこ「イエスを知る」ということについて、もう少し具体的な指示を仰ぐことにしましょう。
8:24 『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。
なんとも不思議な表現です。「わたしはある」、これは神の名とも言われるもので、背景を繙けばなかなか複雑な事情があることが分かってきます。ユダヤ人は神の名を安易に口にしません。聖書にはその名が文字で書かれてあるのですが、その文字を本当の名で呼ぶことは畏れ多くてできません。私たちが歌の歌詞で「本気」と書いて「マジ」と読んだり、「地球」と書いて「ほし」と読んだりすることがあるように、ヘブル語も別の読み方ができる仕組みになっており、それは母音を替えるということなのですが、本当の神の名ては別の読み方で神の名を呼ぶのを避けるということをしていました。この様子を踏まえて、神の名を日本語的に説明すると、おそらくこの「わたしはある」になろうかというのです。「わたしはある」という意味の、天地を創造しイスラエルの民を導いた神の名を信じないことが、分かれ道だと言っているようです。イエスに出会うことは、この名を信じることと等置されます。
8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。
8:29 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」
そしてイエスは、「人の子を上げたとき」に本当にイエスと、そして神と出会うことができると臭わせます。これは、十字架を指していると思われます。この十字架のイエスと出会うことが、即ち神と出会うことになると言っているかのように感じられます。すると、「わたしはある」ということを信じない故の滅びの道が、今度は救いに転じます。
8:30 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。
あっという間の逆転でした。「信じた」と瞬時にして反対側の表現になってこの場面が落ち着いたのです。驚きです。それは、かのファリサイ派の人々のことかもしれませんが、恐らくこの福音書をいま読んでいる私たちへの希望ではないかと思います。読者はイエスに置いて行かれるのではないのです。そうだ、私たちは信じるぞ、信じるから罪に死ぬのではなく、神と共にいることができるぞ、と希望をもつように促されていると読んでみたいのですが、如何でしょう。
さて、冒頭で私は、『ノルウェイの森』を持ち出しました。来る者を拒まずというような、どこか優柔不断な主人公の男性が、大切な存在を喪い、言いよってくるやや強引な女性と生きていこうと思う中でも、いまどこにいるのかと電話で尋ねられたとき、「僕は今どこにいるのだ?」と戸惑ってしまう様子を紹介しました。小説の最後は、「僕は今どこにいるのだ? でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?」というふうに幕を閉じられていたのです。
イエスが「どこから来たのか、そしてどこへ行くのか」という問題に出会うことができるためには、人間の側が、「今どこにいるのか」を見失うわけにはゆきません。改めて問うてよいですか。「いったいここはどこなんだ?」――教会ですか。心許せる仲間がいる場所ですか。自分が人のために活躍できる場所ですか。それとも、自分が立派なクリスチャンだと誇り、威張って、他人を見下して悪口を言い合うような、そんな場所ですか。もう二度と来たくないような、自分とは無関係な場所ですか。
「いったいここはどこなんだ?」――ここから、あなたが答えを捜してください。自分だけしか答えられないような、あなたの答えを。