言葉をめぐるジレンマ
2020年2月6日
人の放つ言葉は、人から離れてそこに佇むとき、放った人の思惑とは別に、受け手の中で蠢き始めます。言葉はそのため、時にひとを助け、時にひとを傷つけます。良かれと思って語ることも、必ずしも万人に益となるわけではありません。これをデリケートに感じた人は、言葉を出すのに怯えます。むしろ優しいからです。何も言うまい。傷つけたくないから。誰にも会うまい。誰をも傷つけたくないから。こうして引きこもる人がいたら、とても誠実なのだろうと感じます。世はこうした人々を非難し、病気だというレッテルを貼り、いてもいなくてもよいような厄介者だと排除することがあり、無視すらします。この構図は、様々なひとに対して成立するようにも思われます。
難しいものです。誰をも傷つけないような言葉があるのだったら……。
他方、そんなことに何の気も払わない人もいます。確信犯として、暴力的な言葉であってもそれを言うのが正しいと自己義認するような人もたくさんいます。善意で暴力を揮い続けるという場合もあり、自分で自分のしていることが分からないというのが、哀しいかな、人間の性でもあるようです。それを我が身に戒めながら、それでも性懲りもなく何かを言わなければ生きていけないような哀れな者として、言葉を紡んでいる私です。
人を殺す言葉は恐ろしい。生きていても仕方がないような者がある、などと平然と口にする人もいます。それを行動に移してしまったことで、事件となったことは、多くの人の心を痛めました。しかし、果たして彼の主張が、ひとかけらでも自分の心に転がっていないか、試されるような気もします。キリストが動機を以て罪々をまさぐったことを、案外私たちは軽く見ているのかもしれません。
だって自分で何も動けず、他人の世話になっているだけじゃないか。コミュニケーションもとれないで、何の存在意義があるのか。実のところ、そのような思想もあるのです。人格とは何か、生命とは何か、突き詰めるときに、ひとつの行き場であることは否定できません。そこから臓器移植の問題も関わってくるし、法的な判断も伴うことがあります。でもそんなふうに言われて、家族は叫びます。そんなことはない、話しかけると、睫が動くんです。ちゃんとコミュニケーションが取れるんです!
その叫びは尊いものです。が、残酷な考え方もあります。確かに睫が動くのであれば、コミュニケーションがとれている可能性があるのだとしましょう。では、睫さら動かない場合はどうなるのでしょう。動くことで訴えるとなると、動かない人を今度は排除することにもなりかねません。
しかしまた、自由の主張の問題の場合に、こういう論理があります。自由というものは、自由を否定する思想だけは排除することができる、と。純粋な自由であれば、「自由を否定する思想」を語る自由もある、と言えそうですが、それを認めると、自由であることが脅かされる故に、それだけは否定する、という考え方です。つまり、自由という思想において、なんらかの線引きがなされ、例外規定がもたれるのも仕方がない、とするのです。
どこで線引きをするにせよ、生命活動をしているだけの存在を否定する可能性は、仕方がないかのように捉えられるのだとすれば、その線引きを勝手に自分の判断で引いてしまったことについても、どのように対処してよいか分からなくなります。直感的にそんなことはだめだと言いたくても、私たち自身が、どこかで同様の線引きを試みているのだとしたら、単純には責めることができなくなる可能性があるわけです。
だから、存在しなくてよいような命はない、というテーゼを以て、あらゆる否定を取り除く、そういう考え方も出てきます。それが健全だろうと思います。とてもよいことのように思えます。しかし、私たちはあの事件の彼に対して、死刑判決を望んでいる心理があるかもしれません。つまり、彼は、存在しなくてよい命である、と私たちは結論づけようとしているのです。私たちはそのとき、彼の主張を認めてしまったことになるのかもしれません。
言葉が、私たちの思いをつくるということもあります。私たちは、何かの言葉の言いなりになってしまっていることがあり、しかもそれに気づかず、正義だ愛だと自己義認します。神という名を持ちだしたところで、その危険性は十分にあり、人は、さしあたりその都度精一杯の決断をして歩いていくしかないのですが、難しいことであるには違いありません。依然として私たちは、堂々巡りをするしかないのでしょうか。