対話と哲学

2020年1月31日

自分はずいぶんと嫌な奴なのだと思います。
 
昔のことを知らない若い人に昔のことを得意気に話したりするのは、知らないことを指摘されて面白くないだろうと思います。そんなことも知らないの、というふうに聞こえるだろうと思います。その逆に、いま若い世代が常識として知っているようなことをこちらは知らないわけであり、だからこのバンド知ってるかとか、ジャニーズのメンバーやなんとか坂のセンターは今回誰とかいうことを言われたら、こちらは確実に降伏なのに、教会の若い人たちは謙遜ですからそんな逆襲にはなかなか出てきません。申し訳ないなぁと思っています。ごめんなさい。
 
とはいえ、そうしたことにすら気づいていなかったかつてよりは前進したのだと言えるかもしれません。いやいや、そんなことを言うこと自体、また嫌な奴だということになるのだな、というふうに、思いは堂々巡りしています。
 
そんな反省も舌先三寸、人が得意気に言うことについて、それは違いますよ、と口を挟むこともあります。多少違っていてもそれほど大切なことについて議論しているわけではないので、聞き流しておけばよい、というのが通例のお付き合いなのでしょうが、私はあまりそんな気にはなれません。その誤った情報を聞いた人がそれを本気にしてしまってはいけない、というような思いが頭を過ぎるからです。曲がりなりにも教育的な仕事をしていると、ついそんな思考回路になるのかもしれません。
 
しかし、他人のちょっとした言い間違いに噛みつくように口を出すというのは、ひじょうに傲慢な言い方かもしれません。話していたほうにもプライドというものがあります。それは違いますなどと訂正が入って、面白いはずがありません。つまりは、プライドを傷つける行為なのです。
 
ですから私も、誰彼ともなく普遍的に、ひとの言い間違いに訂正を下すようなことはしません。たいていはうんうんと聞き流して気づかないふりをするくらい知恵は心得ています。それでも、少しばかり考えて、これは訂正しておくべきだ、というように考える場合があります。その背景を少し説明してみます。
 
ひとはしばしば、自分の弱さを見せたくないと思うものです。自分の弱みをおおっぴらには知られたくないと誰しも思うでしょう。これは仕事柄私も日常的に感じています。教室で教える側の教師は、自分の知ることを語るわけです。当たり前ではないかとお思いでしょうが、少々突っ込んで考えてみます。授業というのは、生徒に何か尋ねてみるとき、教師はその答えを知っているはずです。そして正しい答えを、指名したその生徒の間違いを通して、クラス全員に正しい知識を授けるという形式になります。つまり、教師は自分の知っていることについて、生徒に質問するのです。それが教育ということになるのですが、このとき、知らない側の生徒に対して優位に立つことができる、というのもまた事実です。もちろん、教育の場ですから、「おまえはそんなことも知らないのか」というような成り行きにはならず、それをこれから授けよう、というように教育的効果を前提に、そのようにすることになるはずてず。
 
だから、教室での教師は、生徒に対してそもそも優位に立っている立場にあるのですが、生徒に質問してみることについて、その優位さが揺るぎないように演じている、と言うこともできるでしょう。だから、教師自身が知らないことについて疑問を投げかけることはしません。この暗黙の了解がありますから、生徒側も、教師の投げかけた疑問はこの後解決してくれるのだ、という安心感の中で、知らない側を演じていく心構えができるということになります。そのため、もし思わぬ質問がきた場合が困ります。それに即答できないときもあり得るし、そのときにはたじたじとなります。あるいはそれを聞いてくれるなと泣きたくなる人もいるでしょうか。それとも、それは知らなくていい、と逃げたり、どうしてなんだろうね、ととぼけたりするでしょうか。その都度演技をして、質問に答えるにせよ答えられないにせよ、自分の優位さを崩さないような返答の仕方を瞬時にして探し、にこやかに答えるというテクニックを心得ています。教師とはそういうものです。権威を保たなければならないのも仕事のうちなのです。
 
ある物知りのラジオのパーソナリティがいます。人生経験が豊かで、また本も好きなので、様々な知識に長けているのです。しかし気さくな人ですので、あるときこんなことを答えていました。どうしてそんなに何でも知っているんですか、といつものレギュラーな相手が口にしたとき、すかさず、それは自分の知っていることだけを喋っているからですよ、と答えていました。相手は大笑い。楽しげなラジオが続いていくのでした。でもこれは実は奥義なのです。しかし、これを笑いにしてしまうことで、なんだかまた面白い番組だという雰囲気をつくり、それが本当の弱みだということを覚られないようにすることに成功していたのだろうと思います。その点でもまた、このパーソナリティはやはり優れた才能の持ち主なのだと思いました。ただ、私はそれを普段意識して使っているテクニックであるために、図星だと思ったので、いまだに覚えているというわけです。
 
身の回りでも、得意げに自分の知っていることを振りまく。知っていることだけを冗舌に語るという人がいます。動機は分かりません。こうした人の中には、自分が博学であることをひけらかしたいという人もいることでしょう。よく知ってるねとほめられたいのが第一の人もいるでしょう。相手に取り入ろうとする場合もあるかもしれないし、逆に相手との関係で自分を優位に立たせようとしていることもあるでしょう。そして多くの場合、この後者が潜んでいるという構造になっているように思われてなりません。自分が知らない話題にならないように、常に話題を自分の詳しい得意な話題にしていると、自分が何でも知っているかのように見えます。一つの話題で長くもたない場合には、自分の知っている話題を次々と変えて、ころころと脈絡なくいろいろな話がどんどんこぼれてくるということになります。常に自分の優位に立てる話題であり続けるにはそれが有効なのです。
 
具合の悪いことに、私はそういうのを間近で見ると、なんとかその人の話の中の不都合なところを切り崩そうとアンテナを張っている場合があります。自己防衛だか、自己顕示欲だか分かりませんが、その人は自分を優位に置きたいのです。それはまた、知らない部分があるという弱みを潜在的に覚えている故に、その弱い自分をごまかして、自分の知識ある姿だけを相手の前で見せたいという心理でもあるような気がします。でも、人生をその姿勢ばかりで進んでいくのはどうだろう、と私は思っています。ここで実はほころびが出ているのに自分はさも知識豊富な人間であるかのように見せかけることに成功すると、また同じことをよそでもするでしょう。そのようにこのままその人がこれから進んでいくのはまずいと思うからです。教育する、などというわべを飾ってばかりいるというわけにはいかないことに、気づくといいな、と思うことはあります。こうした私の指摘で相手が黙り込んでしまう場合は、もしかすると私の策略がよくない方向へ作用したかしら、と不安になります。あるいはそれを心の中に留めていることなのかしら、と期待してよい場合があるかもしれません。
 
ところがある人は、そんな意地悪で傲慢な私の仕掛けに対して、つまり、その人の言ったことを修正するような振る舞いを私がしたときに、「確かにそうですね、私の勘違いです」というように、実に謙遜に返してきたのです。そんなとき私は、この人は本当に知識があり、尊敬に値する人なんだ、と思います。自分の弱さを隠さないのだから、この人は本物なのだ、と知るのであり、この人をむしろ尊敬の眼差しで仰ぎ見るように私は変わっていくのです。もちろん、見せかけの演技でそのように振る舞う人もいますが、中にはそうでなく、高い地位や権威のある人がそのように心から自分の言い間違いや無知を認めるということもあり、そのときに私は益々尊敬の眼差しを向けることとなるのです。というのは、この人と話をするのであれば、自分を優位に立たせるような人間の力関係の対話の場を心配することなく、常に真理について探究する対話をすることができると信じられるからです。
 
ソクラテスの対話編をご存じの方は、お分かり戴けると思いますが、ソクラテスは、そのように素朴に、真理を取り囲んで対話をしたかったのではないでしょうか。相手がソフィストであれ論敵であれ、真理を探究しようという問いに応じていく限り、その対話は知を愛する営みとして、つまり哲学として、展開することができたのです。しかし、真理などどうでもよく、ただ感情や社会的な見せかけのことにしか関心がなかったような相手に対しては、いくらソクラテスが真理についての議論をもちかけても、聞く耳をもたず死刑判決に参与する群衆となっていただけなのでした。無知の知という、高校生が学ぶ哲学の基本的な姿勢は、このソクラテスの真理を囲んで対話をしたいという態度を基礎にしていたのです。
 
キリスト教の神学というものがあり、それの研究は聖書を読む私たちにとりたいそう助かる指摘をもたらしてくれるのですが、神学者の中には、あるいはキリスト教について講釈を垂れる人の中には、哲学を見下すような発言をする人がいます。神の視座からすると、人の哲学というものは低く位置するものであることでしょう。しかし、聖書を少しばかり読んだ人間が、人間が自分自身の検討をも含めて一生をかけて探究した思考と、知を愛する生き方をした証しである哲学を、軽んじる理由はどこにもないと考えます。そして、哲学を軽視する人がしばしば、このソクラテスのように真理を囲んで対話をするという前提すら、分かっていない、つまり自分が優位に立ちたいがための言語活動をしているに過ぎないことすら気づいていない、という様子を私はよく見聞きするのです。なんだ、ソクラテスのところにも全然届いていないではないか、と思われてしまうその態度は、とても神学どころの問題に関わることなどできない代物でしかないわけです。
 
日本の教育課程は、哲学をさせないようにできています。高校の倫理で学ぶのは、哲学の知識であり、哲学ではありません。フランスでは、哲学的思考の訓練をしないことには大学に入れないシステムになっていたはずです。エスプリの利いたフランスの自由な思考は、この教育制度によるものだとも言えます。日本の政治は、ただ優秀なロボットが育ち、政府の命じることを実行してくれればよいと思うのであって、真理を取り囲んで論ずるようなことは、学問でもなく、大学でも必要ないと見なしているのが本音だと思っています。大学改革でも何でも、そういうことを言っているようにしか見えません。それで、神学とか教会論とかいうキリスト教世界の偉い先生方も、その思惑の中に操られているようなことがあるようにすら見受けられます。自分を優位に置こうとする欲求に基づく対話ではなく、真理を求める対話へとシフトすることは、こうした背景に気づかないと、なかなかできるものではないでしょう。聖書の読解にも、哲学的思考が欠けているならば、人間の力関係に基づく、特定の派閥のなんとか教に成り下がってしまうかもしれません。アポロ派だのパウロ派だのと騒いでいたあのコリントの教会のように。
 
なお、これは余談ですが、たとえばSNSのように自由に発言できる(と思しき)場で、ひたすら他人を馬鹿呼ばわりするような行為は、対話がどうのこうのというレベルではなく、プライドと弱さの自身に気づくことなく、優位に立って言っていると錯覚している気の毒なものであって、聖書を持ち出すまでもなく、昔から子どもたちがよく言っていた、「(ひとのことを)馬鹿と言う奴がバーカ」という知恵にも届いていない自分をさらけ出しているだけですので、気をつけたいものだと思います。



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