【聖書の基本】パン
2020年1月26日
命のパン。パン食が定着する以前は、日本でこの言葉はどのように受け取られていたでしょうか。日本語で「ごはん」とか「飯」とかいう言葉は、「米」の食事そのものを指すと共に、「食べ物」一般を指すこともできます。ちょうど「天気」という語が、晴れのことを指すと共に、天候一般を指すのと同様です。イエスが告げたのは、このような「食物」という意味であったのではないかと思いますが、ここではイスラエルのパン文化について、『目で見る聖書の時代』(月本昭男・日本基督教団出版局)に沿ってご紹介しましょう(以前も記したのではないかとは思います)。
西アジアの人々の主食はパンであったと言われています。農耕民のみならず、牧羊民の主食もそうであったようで、羊毛や乳製品と麦とを交換していたと見られています。羊が目立つ族長たちも、たとえばアブラハムもパンを焼かせているし、イサクの農耕、ヤコブの子らが飢饉の時エジプトに穀物を求めるなど、麦は大切であったと考えられます。
メソポタミアやエジプトでは、紀元前3000年頃には、集中的な小麦の栽培が行われていました。聖書時代の麦は、小麦と大麦が中心で、パンには小麦が適しています。大麦は乾燥に強く、荒れ野に近いところでも育ちました。そして貧しい庶民は大麦がおもであったようです。
麦は秋に種を蒔き、初夏から夏にかけて収穫します。大麦は少し早く収穫できます。畑の耕作は牛やロバが用いられ、その犂(すき)は耕作と同時に種蒔きができたかもしれません。収穫の時には鎌で穂先を切り取り、「打ち場」に集めます。牛やロバが引く脱穀車などで踏みつぶさせて脱穀し、高く舞い挙げると風で軽い籾殻が飛んで行きます。詩編などで、悪者はこの籾殻のように飛んでしまう、と喩えられていました。ほかにもイエスは種蒔きの譬えを話しましたし、この脱穀は敵を踏みにじる意味にも口にされました。
麦を挽いて粉にするのは、平らな石の上で前後に擦り動かす石により麦粒を潰します。石臼は多く遺跡から発見されています。パンの形は薄い円盤形であったといいます。鉢でこね上げたパン生地に酵母(パン種)を入れ、しばらく寝かせてから焼きます。但し、過越の祭り、あるいはそれを覚えて供物として献げるパンは、酵母を入れませんでした。急ぎつくるパンということが背景でしたが、私たちもインドのナンなどでぼんやりそういうのを感じとることができます。もちろんイスラエルに旅した方は、現地の種入れぬパンをご存じだろうと思います。
薄い円盤形にしたパン生地をかまどの内壁に貼り付ける方法や、パン焼き皿にのせて訳方法などがありました。荒れ野では、家畜の糞の乾燥したものを燃やしてエネルギーとした記録もあります。パンが焼き上がると、手で裂いて、酢などに浸して食べたことが旧約聖書から見て取れます。最後の晩餐の記事からも、それが裏付けられるでしょう。
パンの他にも、木の実や植物が古くから食べられ、創世記の記録によると、ノアの洪水の後に肉食が始まっています。草食こそ基本だったのでしょうか。やがて平和な理想の時代が来ると、肉食動物も草食になるだろうとイザヤは描いていたことも思い起こされます。
肉食にしてもきよい動物と汚れた動物とが律法で区別されていましたし、律法では血抜きが義務づけられていました。これは現代でもユダヤ教徒には守られている規定です。但しペトロが夢で見たように、新約の時代にはきよくないなどと区別しなくてよいようになっている、と考えられています。