対話は大切です

2020年1月25日

他人様のポリシーというのにケチをつけることは好みません。けれども、「ああ、そういうことだからなんだ」と合点がいくような経験をすることはあります。この人はこうなんだ、だからあのとき……というように理由づけができるのです。
 
対話が大切だ。そのように書かれていました。確かにその通りです。昨今の国際情勢を見渡しての感想であると思われますが、国際関係のことを論じたのではなく、自分が直に相手と対話をすることを重んじるのだ、ということが言いたいようでした。相手を理解するためにも、直接向き合って話をすることが大切なのだ、ということのようでした。
 
結構なことです。しかしその人を直接知る私は、別の感想をも懐きます。その人から不愉快な言葉をぶつけられたことがありました。私がこのように挙げるくらいですから、それはちょっとした悪口だとか失礼な言葉だとかいうレベルではないとご理解ください。およそ信じられないくらいの暴言だということです。
 
その人は、自分には自己主張が強いという自覚がおありのようでした。けれどもだからこそ、対話を重んじて相手を理解したい、というようなことが綴られていたのです。とてもカッコイイようなことが書いてあるのですが、私はそれを見て、なるほど、と思いました。何も分かっていないのだな、と。
 
この人は、組織のトップにいる人です。そのような立場でいる人にとって「対話」がどのような構造になっているか、お分かりになりにくいのは肯けます。ですが、あまりに無邪気に、自分が正しい良識を述べている様子を見ると、だからこの人と「対話」はできないのだ、ということが確信できました。
 
国際関係をモデルにしてみましょう。B国がA国との対話を拒んでいるという事実があるとします。これだけ見ると、B国のわがままのようです。せっかくA国が対話をしようと歩み寄っても、B国は頑なにそれを拒んでいるように見えるからです。けれども、実はこの二つの国を比べると、経済力も軍事力も、圧倒的にA国が強いわけです。しかしB国はなかなかA国の思うとおりに動いてくれない。そこでA国が対話をしよう、と声をかけるのですが、B国はなかなか対話をしようとはしない、という図式なのです。そもそも対等な立場で話ができる関係ではない背景がある中で、「対話をしよう」というのが、果たしてフェアであるのかどうか、という問題です。何も表向きに威嚇してかかっているわけではないにしても、何かと力をもっている立場のA国が、よほど最初からB国の気持ちを汲んでB国の主張をずいぶんと受け容れてくれる、と期待する外交は、ありえないでしょう。弱い立場の国のほうが、譲歩させられるのが国際交渉です。あるいはちょっとした餌を出してもらうことで喜んで賛同を強いられるということになるのでしょうか。ともかく、最初から対等でない国同士の交渉は、強い国のほうからの対話の呼びかけは、強い国の言うことをきけ、という態度に見えるのは仕方のないことではないでしょうか。
 
これが個人や組織の間でも、同様であることは、説明を要しはしないでしょう。先生が生徒を呼び出して対話をしよう、というのは、最近は先生もずいぶん腰が低くなりましたが、要するに先生の言うことを聞かないと、先生が困るという話し合いになるでしょう。親が子を前に座らせて対話をしよう、ともちかけるのは、子どもにとりあまり喜ばしい状況ではないことが推測されないでしょうか。やがて親の言うことを聞けないのかとか、じゃあ援助はしないとか、そんな高圧的な態度に親が出る、というのは昔は普通ではなかったでしょうか。上司が部下を呼び出して対話をしよう、というのが対等に言えるものではないことは、もっと分かりやすいかもしれません。無礼講などという宴会で本当に無礼講だったことがあるでしょうか。立場や地位に差があるときには、上の方がもちかける対話は、対等になることが難しいのです。
 
それでいて、その強い側からすれば、対話をもちかけたことで、自分はなんと寛大なんだ、と満足しがちです。相手の言うことを聞いてやろうとしたのだから、互いに満足できるはずだ、というように、対話をもちかけたことを自画自賛しがちです。
 
組織の中で上位に立ち権威をもつ側がもちかける「対話」は、しばしばその権力者が高いところから降りてきて相手を大切にしてやったということを示す免罪符のようなものとして、その太っ腹を内外に示すための、いわば茶番劇になりがちです。政府組織と住民との、協議会だのフォーラムだの、名前はどうであれ、話し合いの場が紛糾するのは、結局行政側の計画の押しつけをするためだという、結論ありきの形作りであることが原因だと言えないでしょうか。沖縄と対等に政府が対話をしているようには、どうしても見えないのですが。
 
ですから、対話というものは、思うほど簡単なことではありません。そもそも対話を始めるということ、いわば同じ土俵に上がるということがもしできたら、それだけでもう素晴らしい業績であるような気がしてなりません。ノーベル平和賞はしばしば、この土俵作りによって評価されているように思われます。そこが実際大変なのです。
 
建前としての「対話は大切だ」のフレーズを、立場の強い側が口にするとき、これは恐らく致命的に間違っています。ジャイアンがのび太に、話し合いをしようぜ、ともちかけている場面を想像してください。しかしのび太の側にスネ夫や友だちがたくさんつけば、少し対等に近くなるかもしれません。弱い側は、せいぜい束になって、強い意見を出そうと努めることしかできなのです。少ない政府の役人の決定に対して、住民は何万という書名を集めなければなりません。選ばれた側の議員は、一人あたり何千人か何十万人か知りませんが、投票した人の重みがあるという理解で、圧倒的な権力をもっていることになります。一対一でまともな対話ができるわけがありません。世の中は、テレビドラマのようにはいかないのです。
 
イエスが人となった、というのは、その対話ができたような場面であるのかもしれませんが、それでも地上のイエスも、権威をもって教えたことが記録されています。人間にいたぶられ酷い扱いを受けて殺されたというところを別にすれば、イエスは人間たちと対等に、民主的に対話をした訳ではありません。ただそこには「聴く」という媒介がありました。人がイエスの言葉を聴くときに人は何かが変わり、イエスが人の願いを聴くときに、起こす奇蹟がありました。礼拝では神と人とが対話をします。伝統的な礼拝のプログラムは、まず神からの招詞、応答の祈りや賛美などが、交互に交わされ、まさに対話のように進められていくことになります。語る者は、神の代弁をするようなものです。よほど謙遜に、人間の肉が言葉をぶつけるようなことのないように気をつけながら、しかし人を生かす神の言葉を語るということが求められます。この豊かな交わりが、神と人との望ましい関係であり、ある意味で神の国の実現であると言えましょう。確かに聖書に描かれるように、対話の関係、親しい交わりというのが、理想的にそこに求められているものだと思います。
 
しかし、その礼拝という公式の場面を外れて、個人が自分と相手の立場の相違を意識せずに、対話をしよう、対話をするのがよいことだ、対話を拒むのは傲慢だ、と迫るというのは、あまりに事態を理解していないことによると言わざるをえません。むしろ傲慢というのは、そこにこそある、とも言えるわけです。近年は、こういう問題を「ハラスメント」という語で説明するようになってきました。そうです。ハラスメントは、やっている方は自覚がないのです。自覚しづらいのです。この対話ハラスメントも、もちかける側は分かりにくいのです。
 
ひとは、何かのテーゼを言い放つとき、その人の立場や背景と無関係にその言明が成り立っているのではない、という知恵が必要です。愛というものが人の世界で成り立つとすれば、ひとつには、この知恵と関係があるようにも思われます。この辺りは、抽象的には伝わりづらいかもしれませんので、またどこかでお話しできたら、と願っています。



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