強い人と弱い人
2020年1月13日
ひとを道具として、手段として使うような言い方は嫌いです。でも、道具として使い捨てるような扱いをしている空気には抵抗しなければなりません。「この人たちは何のために生きているのか」というような残酷な切り捨ての思想が、知らず識らずのうちに漂い、人の心を染めようとしていないでしょうか。現実に手を下した若者もいましたが、内心そう思っているということは、政治家のふとした発言の漏れからも分かります。予算を取られるという政治的課題も助長して、社会に役に立たない人間が生きている意味があるのか、というような考え方をするのでしょうか。子どもを産まない女性は非難されなければならないのでしょうか。人権侵害の思想を懐く政治家のことも、少しばかり一部の報道機関や反対政党が問題にしますが、ほんの一時的なもので終わってしまいます。しかしこれは蔓延していると言ってよいほど、人の心を貫いているのかもしれません。通奏低音のように、しっかりと思想を支えている、みたいに。それは、かつて「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いに対する答えがためらわれたのと同じように、「何のために生きているのか」という問いがくすぶっているのが怖いように思えて仕方がないのです。
こうしたものと身を以て戦っている方がいらっしゃいます。頭が下がります。せめて声だけでもそのバックアップになればと願いますが、非力であり、実際何の支援もできないのが申し訳ない次第です。
強い人と弱い人、能力の優れた人とそうでない人がいます。皆が強い人だったら、社会はどうなるだろうか、という思考実験を少ししてみましょうか。誰が強いのか、そこで張り合うだけの関係になるのではないでしょうか。弱い者がいてこその強い人であるはずなのに、強い人しかいないというものは、殆ど自家撞着の世界に違いありません。強いというのは、相対的な概念ですから、すべてが強くなるのは無理なのです。
トルストイの『アンナ・カレーニナ』の有名な冒頭の文。「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」粋な言葉が、物語をかっこよく説明していたと言えるでしょうが、さて、見渡してみるに、そうかな、とも思います。あるいは、そもそもその「幸福」や「不幸」はどのように定義できるのだろう、というところに目がいくのかもしれません。強いことが幸福であり、弱いことが不幸であるのならば、事は単純です。では、弱い中にも幸福がある、と言えばよいのでしょうか。それも傲慢になるような気がします。だから弱くてよいではないか、と告げる私が、ちゃっかり強い側に立ってものを言うことになるからです。それはともかく、人により幸福の物語はもっと違うものだと考えたい。お金があって家族があって皆にこにこ優しくて、というような幸福の図式をモデルにする必要は全くないと思うからです。
私たちは、一部の豚が感染症にかかったら、何千頭という豚を「殺処分」します。それが正当だと多くの人が疑いません。もしかすると、弱い人のことを、強い側に立つ者たちが、(とても嫌な言葉でお叱りを受けるかもしれませんが)「殺処分」したいと考えているのではないでしょうか。先週、相模原の事件の異常な裁判のニュースが流れていたそのとき、もうひとつ別のニュースとして、沖縄の豚これら(CSF)のニューススが流れていました。病気と直接関係のない豚までもが何千頭と殺害されたという報道でした。これに何とも胸の痛まなかった人がいたとしたら、それは、もしかすると、障害者は死んでも構わないというあの被告の考えと、紙一重なのではありませんか? 事情は違うなどという理屈はとやかく議論はしないつもりです。役に立たないものは「殺処分」する、という思想と重なるものを、感じて苦しく思っていた私は、異常でしょうか?
実際に手を下さなくても、そのような心で思ったならば、殺しているのと同じことだ――福音書を読むクリスチャンならば、このことは認めてくださるだろうと思います。何かしら一般的な言明をしているふりをしながら、実際は自分を強い側に置いて、正義の代理人のような顔をして尤もらしいことを口にする。強い人間はそのような態度に出ることがあるように思われてなりません。
しかし、神の前に、強い人など、いないはずなのです。