【聖書の基本】サマリア
2020年1月12日
ダビデにより統一イスラエルの基盤ができ、その子ソロモンの時に栄華を誇った王国は、ソロモンの息子レハブアムの時代に早くも分裂します。圧政を嫌った北の十部族がヤロブアムと共に独立し、北イスラエル王国として成立、エルサレム神殿を守る南部が南ユダ王国として並立しました(B.C.922)。その間には時に和平もありましたが、争いも多く、またエルサレム神殿を有する南ユダ王国は、北王国を宗教的に見下すこととなります。
北イスラエル王国も直ちに礼拝の拠点を造ります。しかも人心を捕らえるのに、こともあろうに、金の子牛を神だとして祀る始末。北部のダンと南部のベテルの2箇所にその偶像を設置しました。サマリアはその南に近い地域で、イスラエルの王オムリ(B.C.870頃)が北王国の新しい首都として設けた町です。オムリの子が有名なアハブ(B.C.850まで)で、その妻イゼベルと共に、旧約聖書でけちょんけちょんにけなされる存在となります。
アハブは首都サマリアで贅沢を極めますが、イゼベルの崇拝するバアルの神殿を建てたといい、サマリアは偶像礼拝の中心地となります。アハブ以降王たちはこのサマリアの地に葬られます。イエフ(B.C.815まで)の時にそれは粛正され、イスラエルの神を礼拝するようになりますが、ヤロブアム2世(B.C.746まで)の時に国としては尤も繁栄したと言われ、支配を拡大することができました。
しかしその後アッシリアに狙われ、貢ぐことで危機を防ぐものの、やがてアッシリアに制圧され、要人がごっそりアッシリアに連行されます。北イスラエル王国は国としての体裁をなくし、滅亡したとされました(B.C.722)。その国の歴史は、江戸時代と同じくらいの長さでした。
サマリアは、アッシリア王により、その帝国各地から集めた人々を移民として住まわせ、偶像礼拝が盛んになります。残ったイスラエル人は主を礼拝する人々もいましたが、次第に混血が進み、純粋なイスラエル人からかけ離れていくのでした。このように、移民によりかつての団結した人々を歴史から葬ろうとする策略は、日本でも島原・天草一揆(1637)の後にも江戸幕府がとったものであり、島原半島はすっかりキリシタンでない人々の住まう地に変えられていったのでした。要するに、キリシタンとしてのアイデンティティを破壊するという方針での策略であり、このサマリアも、イスラエルの民としてのアイデンティティが崩されていった歴史があったということになるかもしれません。
南ユダ王国はさらにしばらく続きますが、新バビロニア帝国に滅ぼされ(B.C.587)、やはり捕囚として多くの人々を連行しました。この帝国を滅ぼしたペルシア帝国の王キュロスによりユダ民族の人々は帰還が許され(B.C.537)、やがてエルサレム再建を果たします。このときサマリアの人々との間に対立が起こります。サマリア人が手伝おうとしたのに、拒否するのです。それは後述のように、サマリアを拠点とする信仰に対する反発の故でもあったのでしょう。
サマリアはさらにその後、アレクサンドロス大王に滅ぼされ(B.C.331)、様々な支配者の下に翻弄されていきます。ローマ時代にサマリア再建が図られますが、本格的にそれが成立したのはヘロデの時代でした(B.C.25頃)。そうして大きな神殿が建てられました。サマリアでは伝統的に、聖書といえばモーセ五書と考えられ、サマリア教団が保存していました。神の正典は五書のみであるとの考えで、独自の書体で書かれるなど大切にされていました。むしろ狭い社会で写本がつくられていったために、貴重な史料となりえています。但し、私たちが認めるタイプと比べると、やはり北の地域での礼拝を正当化するような記述に変えられているなどと言われています。
こうしてサマリアを中心に育まれた信仰というものもありましたが、南ユダ王国の後継としてのユダヤ人たちは、これをひどく嫌いました。人間、大きな違いのあるものについては無関心でいられますが、似た存在のものが少し違うようでいるとひどく対立することがあるものです。いまもキリスト教と名のる者たちの間では、互いに相手を「異端」と呼び合うようなことが起こっています。ユダヤ人からすれば、サマリア人は殆ど敵と呼ぶに等しいし、また宗教的には劣ったものとして見下しているようなところがありました。イエスの言葉を理解しないユダヤ人たちは、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」(ヨハネ8:48)と吐き捨てていますが、サマリア人をどのように見ていたかがよく分かります。
サマリアは、地理的にはイスラエルの中心部にあるといえます。イエスが拠点としたガリラヤからエルサレムへ行くには、この地域を通るのが直線コースのようなものでしたが、ユダヤ人はこの道を通ろうとはしませんでした。そこでヨルダン川の東へとわざわざ遠回りをして行きます。それほどに、サマリアは汚らわしく、触れたくもない土地であったのです。
このような背景を理解しておくことにより、かの有名な「善きサマリア人の譬え」を考えていくことができますし、イエスに癒された10人のツァラアト(重い皮膚病)のうち1人だけ感謝に戻ってきたのがサマリア人であった話の重みを知ることができます。そして、このサマリアの町での、曰く付きの女との対話はどうでしょう。ラビが女と話をするということ自体が殆どありえないようなことであるのに加えて、サマリア人であり、しかも訳ありの女です。その女とイエスの話がまた、罪の赦しなどという話ではなくて、「礼拝」というテーマですよ。この場面のもの凄さを感じませんか。
復活のイエスは弟子たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)と告げました。わざわざサマリアの名を出しました。そしてこのサマリアの町にフィリポは福音を伝えて信ずる者がおこされました。このことは、エルサレム教会にとり大きなポイントになりました。