【メッセージ】愛と裁き

2020年1月5日

(ヨハネ3:16-21)

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
 
ルターがとても気に入っていたという話を聞きました。プロテスタント教会では、これを言えない人は肩身の狭い思いがすると言われています(本当かな)。ヨハネによる福音書3章16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これは新共同訳ですが、新改訳だと「神は、実に」というところから始まり、これもなかなか気合の入るフレーズとなります。
 
短い言葉には、様々なポイントが詰まっています。

神は世を愛した。唯一与えられた息子を与えた。あまりネタばらしはしたくありませんが、かつて私はここを読んだとき、「世」は「自分」のことだと思いました。そう思えたのは、すでに聖書の他の個所で、自分が神に呼ばれており、また聖書には自分のことが書かれているという体験をしていたからです。そもそも聖書はそのように読むべき本であって、オカルト的に世の終わりの案内書であるとか、知的に突き放して、その謎の正体はこれでいるとか探って喜ぶような本ではないと思っています。そしてそうでないと、教会に毎週くるようなことはないだろうと思います。
 
独り子というのは、どう考えてもイエス・キリストのことでしかありません。ここからまた、神とイエスとの関係はどうだ、三位一体を説明しろ、などというほうに話が走ると、興味本位に聖書をいじるばかりの人生になってしまいかねません。独り子が神と同じであろうが別の姿であろうが、イエス・キリストをずたずたになり殺されるまで放置するというのは、私たちを支配する神のすることでは本来なかったはずです。あまりにも信じられない出来事です。でもそれは起こった。非の打ち所のなかった方が、殺された。殺されるままにしていた。
 
どうしても、中村哲さんのことが重なってくる、そんな方も多いでしょう。アフガニスタンのために自分自身を献げた、そういう人にアフガニスタンの人間が銃を撃った。どうして殺されなければならなかったのか、不条理極まりないことだと多くの人が思ったことでしょう。信じたくないけれども、それは起こった。イエス・キリストの十字架に、この不条理を感じなくなったのは、いつからでしょう。さも当然のことのように、十字架・ハレルヤと言い、ありがとう、なんて言っている。十字架を思い、くよくよしているというのもまたこの信仰とは違うけれども、自分の罪が赦されるというために、何が起こったのか、噛みしめることを、忘れてしまったか、そもそも最初から軽く見てはいないものか、問われます。
 
このイエスを信じる者は、誰一人滅びることはない。イエスに信頼を寄せる者であるとともに、イエスを父なる神の子として仰ぐ者。他の神々にでなく、このイエスに身を預ける者。私たちはそのようにあるでしょうか。問題が生じ、壁が現れたとき。真っ直ぐ歩き続けることができなくなったとき。私たちは、人を頼ります。いえ、もしかすると金を頼ります。権力の傘を頼ります。そういうのが嫌いな人は、優しい人を頼ります。人を頼りたくないひとは、自分を頼ります。自分を信じてやると誓います。知恵を頼り、運を頼り、努力を頼ります。口では神を信じますなどと言いながら、神でないものを頼りにしているのが、あまりにも常態となっている私たち。しかしそこでイエスを信頼することを第一とするように奮い立つこともあります。そうなれば、誰一人滅びることはないというのです。ここから直ちに、信仰をもってももたなくても、凡そ人間というものはすべて救われるはずなのだ、という結論は出しにくいと思われます。信じる者という主語の限定があります。ただ、すべての人に可能性が開かれていることは事実だと思います。誰でも、神の言葉に頼ることは許されています。その道は開かれています。おまえは立ち入るな、と封鎖されることはないでしょう。誰でも聖書の言葉に、神の言葉を聞いて、それでいきいきと輝き始めることはありえることです。その意味では、すべての人は救われうるのです。信じる者はひとりも滅びはしないということになるのです。
 
その結果、永遠の命を得ることができる。聖書の要約は、このフレーズで閉じられます。永遠の命、それは時間単位で何年生きるというような想定を拒みます。確かに、代々にわたる命というものを意味はしているでしょう。福音書の求道者のいくらかは、この永遠の命を求めてイエスの門を敲いたと言えるでしょう。貧しく病気に苦しみ、社会的差別に喘いでいた人々はその癒しや社会復帰を求めていましたが、この世界でたいそうな修行をしたり律法の学習と研究に余念のなかったファリサイ派や律法学者たちは、そんなことに不自由はしていませんでしたから、永遠の命を願いました。イエスはそうしたエリートたちが、貧者を虐げている図式に対して神の言葉をもって振りかざし戦いを挑みました。ここでも永遠の命をもたらすのは、イエス・キリストを信じることである、とはっきり示しました。いまこの瞬間を輝き生きるとき、いまこのときに愛する人と幸せを感じるとき、ひとは永遠を覚えることがあります。それもまた、永遠の命なのであって、決して錯覚や思い込みではないと思います。ただイエス・キリストを信じるならば、それが刹那的でなしに、その光と温もりの中にずっといて、歩んでいくことができるというのは確かです。
 
しかし正直、この「永遠の命」ですら、考えれば考えるほどなんとも表しにくいものです。ヨハネの手紙第一は冒頭で、このように告げます。
 
1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――
1:2 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。
 
永遠の命なるものは、わたしたちに現れたと明言されています。それは「命の言」でもあると言われています。この手紙はヨハネによる福音書と同じ系列にある思想の中で書かれていますから、この福音書の冒頭「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)を踏まえていないはずがありません。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(ヨハネ1:4)などと展開しますが、このようにして、言はイエス・キリストであることが明らかになっていく福音書の始まりでした。「永遠の命を得るためである」は「イエス・キリストを得ることになるのだ」という気持ちで読んでも、決して的外れではありますまい。イエス・キリストを得る、キリストが内に生きる、そこには滅びはありません。信じるならば、キリストがいつも共にいるのですし、それは終わることもないわけです。
 
さて、こうして、小聖書のエッセンスについては、ありきたりなお話をここまでしてきました。これでメッセージを終えることも充分可能です。しかし実のところここまで、たったひとつの節だけしか見ていません。それでいいのでしょうか。この後の言葉には全く以て光が当てられていないのですが、それが適切な聖書の開き方なのでしょうか。
 
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
 
たった次の節を見ただけで、様相が変わってきたのを感じます。もちろん、そこで「救い」を一番の目的として挙げてはいるのですが、「世を裁く」という不穏なことが、さして必要もなさげに登場してきたのです。
 
3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
 
信じる者は裁かれない。これは分からなくもありません。しかし、信じない者はもう裁かれてしまっているというのはどういう訳でしょう。イエス・キリストを信じないからもう裁かれているのだ、それで終わり、というふうなのです。裁きという言葉は、いわゆる最後の審判を想起させます。四季が巡るように時間は永劫回帰するのだという思想も世界にはあります。しかし残念ながら、宇宙には始まりと終わりがあるというのが現代科学の認めるところです。地球環境ひとつとっても、すべてのものがリサイクルというわけにはゆかないことが明らかになってきました。どんなに楽観的な考え方をしたにせよ、エントロピーの増大の法則は、エネルギーの枯渇を確実なものとして想定せざるをえなくなっています。裁きという考え方には、どうしても裁判のイメージが混じり、神は羊と山羊とを分けるように、神の側の者とそうでない者とを峻別するのだというのが、聖書の文化の伝える世界の終わりとなっています。羊飼いらのいる文化的背景でのイメージですから、いまの私たちのためにもし聖書が書かれたらどのような書き方をするのだろうと楽しみになりますが、裁きは神の手によって最終的に何かしら分ける営みだということになるでしょう。永遠の命か滅びか。それが決められる最終的な決定、この世界の不条理の解決がなされるという意味なのでしょうか。
 
これがまともに迫られるのは、恐ろしいことです。教会に来て、裁きなどという話を聞いて怖くなって、教会に行かなくなった、という話をよく聞きます。逆に、その怖さからカルト団体にどっぷりと浸かっていったという例も多々あります。キリスト教系のカルト団体は、名の知れたものばかりではありませんので、注意が必要です。こうしたことは古今東西あるのであって、昔から純朴な人々は、自分は救われているのだろうか、と不安になりました。この世での栄華を極めた藤原氏のそのまた絶頂期を満喫した、藤原頼通でさえ、死後の極楽を案じて平等院鳳凰堂を建立したのは、中学の歴史でも学ぶことです。また、そのような意識を突いて、祖先の罪が赦されるための寄附を集めていた教会に対して、当たり前と言えば当たり前の抗議を、しかしなかなかできない抗議をしたのが、宗教改革の始まりだったことも思い起こされます。
 
私は救われているのだろうか。これに悩むのは、えてして純粋な人であり、誠実な人なのだろうと思います。こうした人は、他人に優しいものです。能天気で図太い神経の持ち主であれば、それがどうした、と大きく構えます。そして、他人に酷いことをしている、などということがしばしばあります。でも、そう言えば救いの確証はないし、こんなに自分は弱いしだめだめだし、と、ある意味で適切に考える人は、裁かれるのではないかと心配になるわけです。
 
学校の教室で、先生が「お説教」をするとき、先生としては、名指ししないにしても、何かしでかした特定のAに向けて説教をしている、という場面があります。他の生徒に言っているのではないわけです。しかし、他の生徒、とくに気の弱い誠実な生徒ほど、その先生の注意を自分のことを言われているように受け止めて、真剣に聞いている、などということがしばしばあること、ご存じでしょう。肝腎のAは、全く聞いていないか、自分のことだとは気づいていない、という感じです。そもそもそれが自分のことだと認識できるようであれば、最初からそんなことはしなかったのだろうとさえ思われます。聞かねばならない人が聞いておらず、聞く必要のない人が熱心に聞く。この「お説教のパラドックス」は、教室ではほぼ常識とも言える現象ですが、さて、本場教会の「説教」においても、妥当するのではありますまいか。もちろん、牧師が特定の信徒のことをあてこすりのように言ったり、あげつらったりするのは、厳に慎まなければならないことではあるはずでしょうけれども。
 
さて、このペリコーペは、小聖書と呼ばれる聖書の要約の一句で始まりましたが、まだもう少し続きがあります。
 
3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。
 
恐らくヨハネと称するグループがあって、それは確かにキリストの弟子の一派ではあるのですが、本来のエルサレム教会とは少し違う動きをとっていた可能性があります。独自の福音書をこのように編集しました。他のマルコに始まる福音書は、ユダヤ教に詳しい領域と異邦人伝道を中心に据えた領域とで、マタイそしてルカとそれぞれ特色のある福音書を生みました。これら三つの福音書を、重なる部分が多いために「共観福音書」と言います。しかし、こうした福音書を多分知った上で、ヨハネを冠する共同体が、独自の福音書を生みました。この共同体は、一定の愛によ結束を図っていたようにも見受けられるのですが、もしかすると、エルサレム教会のような主流派に向けて、メッセージを送っているようにも感じられます。共に愛の共同体とならないか、と。エルサレム教会は、パウロを従え、異邦人伝道をもなんとか認めた中で、他方ユダヤ系信徒とギリシア系信徒との間で争いが絶えず、想像するに多様な問題を抱えていたようにも思われます。もちろんローマ側からの圧力もあり、ユダヤ教の方からの攻撃がもっと多かったことでしょう。凡そ安らぎのない教会であったとするならば、それはどこか今のキリスト教界を彷彿とされるものがあるかもしれません。ヨハネ教会が、そうしたこの世的な諍いの見られる主流派に呼びかけて、愛ある交わりに留まらないかと呼びかけても不思議ではないと思うのです。さあ、愛ある光の交わりへようこそ!
 
もちろんヨハネ教会だって、問題を抱えています。一番問題だったのは、教えを曲げた尤もらしい思想だったことでしょう。いわゆる「異端」に対しては非常に厳しい口調で蹴散らす傾向が、とくに「ヨハネの手紙」を読むと分かります。諍いばかりの教会にしても、教えを理屈をこねて曲げる集団にしても、ヨハネのグループから見れば、闇のようなものだったことでしょう。ヨハネの福音書も手紙も、そこにあるのは光のイメージです。この光の中を歩もうではないか。口先だけでなく、行いにおいても光の中を堂々と歩くことができるような有様でいようではないか。
 
現実に、諍いや論争に明け暮れる教会であったら、もうその時点でアウトだ、とヨハネ共同体は判断したかもしれません。やがてくる神による裁きを待つまでもない。いまごちゃごちゃ問題に振り回されているようなら、もうすでにここで神の裁きがなされているとされても仕方がないほどだ。そんなことでは、「もう裁きになっている」のではあるまいか。この光の交わりの中に来ないならば、それはもはや悪なのだ。神に導かれて行う者は、必ずや、この光のグループにつながり、愛に満ちた教会でいようではないか。
 
私には、ヨハネがそのように言っているように聞こえてなりません。それは、想像に走ったことであるとも言えるでしょうし、ヨハネ教会を買いかぶっていることになるかもしれません。ですが、私はヨハネ教会が正義だとか愛を実現しているとかを言いたい訳ではありません。このような教会への指摘は、私たちにも向けられていると受け止めてはいけませんか。私たちの教会はき愛によりつながり、愛の交わりの中にありますか。自分ではあるつもりかもしれませんが、光の中にあると自称することは簡単だとヨハネはしきりに言います。自分だけ気持ちよく恵みだなどと言いながら、実際は信徒の誰かを虐げたり、苦しめていたりするようなことは、本当にないのでしょうか。
 
せっかくの、聖書中の聖書という箇所を踏まえながら、胸苦しいようなことを言わねばならないことは残念です。しかし、まさにこの聖書の箇所は、そんなところにまで流れていっています。神が私を愛されたことを踏まえ、永遠の命まで見せておきながら、これを信じないことは裁きなのだと言いました。少しばかり想像を働かせ、ヨハネというグループの論理を考えたとき、どんなに楽しそうに教会生活をしていたところで、罠があるのではないか、と考えさせる契機を与えてくれたと見てはいけないでしょうか。そこまで厳しい眼差しを経験した上で、もう一度、小聖書の言葉を受けてみましょう。今度は、少しばかり最初と違う印象で、神の愛が感じられ、またそれを自分がどう生かしていくものか、考えてみたくなるように思えてなりません。



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