【聖書の基本】小聖書の「世」
2020年1月5日
誰が言い始めたのか知らないのですが、「聖書の中の聖書」「小聖書」などと呼ばれるのが、この句。教会学校でも、必ず覚えさせられる代表格です。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
福音の要約がここにあるとされ、ルターに言わせると「聖書の縮図」「小さな福音書」ということらしいのですが、確かに、この句だけを口に出して言えるならば、めげそうな時にも、立ち直るきっかけとなりそうな気もします。
「独り子」の大切さは、親になってみるとまた分かるのですが、聖書の中では、なんといってもやっと与えられた独り子イサクを神が献げよと命じたそのときのことがここに関わってくると言えるでしょう。これにより、アブラハムは信仰の父と呼ばれるようになりました。
「世」というのが不思議な言葉です。福音書の中ではヨハネ伝に圧倒的に多く登場します。他の福音書では、この社会のことを指していることが分かりやすいのですが、ヨハネ伝だけは、神秘的な響きで、謎めいた言い方の中で使われる機会が多くなっています。パウロだと、コリント教会のように、この世の中のことに関心が深くまた問題を起こしている人々を相手に言うばかりでは、深淵な思想につながる気配がなく、ローマ書では罪が世に入ったというような理論の中で少し出てくるくらいです。
注目したいのは、やはりヨハネの手紙で、特に第一のものです。これはヨハネによる福音書をきちんと踏襲していますから、併せて読むことで、互いの理解を増幅することができるような気がします。
「世」は原語では多くは「コスモス」です。この世界を表します。それで英訳では「world」となります。いまでは宇宙を表すこの語は、何かしら秩序があり調和がとれているものを意味します。古代ギリシアのピュタゴラスは、世界の秘密は数にあるとして説明した(音階の理論は現代でもこのピュタゴラスに基づいて理解されている)のですが、それは数字の計算で説明できるということであり、これもいまなお人間が使っている原理であるということが言えそうです。花のコスモスは、メキシコに来ていた宣教師か誰かが、花のバランスの美しさに、秩序に基づく世界を感じ、名づけたと言われています。
「世」なる言葉は、ヨハネによる福音書では惜別の説教において特に多用されますが、確かにこれはこの世界、私たち人間が住む世界のことを言っているには違いありません。しかしヨハネの場合、イエスがその世には属さない者であること、だからまたイエスの弟子たちもそうであることを告げますから、いまこの世で生きている私たちも、この世に属さないという、不思議な構造を示していることになります。この意味を感じとるのでなければ、ヨハネによる福音書を自分のための言葉として感じることが難しくなります。
これは、聖書を自ら読んでいて気づくことが実は大切なことです。ひとに言われてなるほど、と言われるのはよろしくありません。それは、「世」とは「わたし」のことだということです。神は「わたし」を愛してくださっている。この特異な点を通らないと、ありていに言うなら聖書が理解できないし、信仰的に言うと、救いを受けたと思えない、ということになります。
その他、「一人も滅びない」「永遠の命」という言葉がどのような意味をもつものであるか、「わたし」とそれとの関係はどうなるのか、それはこの句を、そしてだから聖書を、受け止める私たち一人ひとりに問われています。さすが小聖書です。いくつも深めるための言葉がひしめき合っており、ただなんとなく口にしているばかりでなく、時に深い黙想が必要になりましょう。また、時にそのうちのひとつのことについて、ハッと気づかされることがあることでしょう。それだから、聖書の言葉を、よく意味が分からないままにでも、覚えてしまうことの意味があります。その言葉が、必要なときに、命をもって自分の心の中で大きくなってくることがあるのです。まさに命の言葉です。
まずは、この3:16をそらんじておきましょう。
神は、その独り子をお与えになったほどに、
世を愛された。独り子を信じる者が一人も
滅びないで、永遠の命を得るためである。
(ヨハネ3:16)