礼拝説教
2019年12月30日
こうあらねばならない、などという決まりは、もちろんあろうはずがない。しかし、いつも聞き慣れている説教が、なんとなく当たり前のようになっていて、下手をするとそれしかない、というふうにも思い込んでいるのは、もったいない。拙い場合には、他の説教を聞いたときに、あれはダメだ、と妙な感情を抱いてしまうかもしれません。
ゲストで歳末の主日礼拝にかけつけてきたその若い牧師は、当教会の牧師を通じて簡単に人物紹介を受けると、前に立って、声を発しました。会衆は緊張します。何を話すのか。声は、内容は、どうなのか。このとき会衆は、きっと何かを期待していただろうと思います。「ただいま紹介に与りました……」「こんにちは。私が○○です」「今日ここへ来る途中……」「初めまして、の方が多いでしょうね。この教会に私は昔……」そんな挨拶から走るのが、至極自然であることを、教会で説教を聞き慣れた人々は、理解しているからです。
ところがその牧師は言いました。「今日私が、皆さんと分かち合いたいことは、二つあります。ひとつは、聖書が……」
この後、全くぶれることなしに、聖書とそこから自分が聞いたこと、思うこと、そして勧めることを、まくしたてるように話し続けたのです。それは、たった今朗読した聖書箇所を神の言葉として聞いたのなら、配慮する心に満ちた人間的な思惑などを一切介さずに、そのまま、聖書の言葉を説き明かすという自分の使命を、果たそうとするかのようでした。そこに語る者の信仰を見ました。
きっちりとした原稿ができています。それを読んでいるために、言葉が全く淀みません。けれども、それは作文を読むようなものとは少しも思えませんでした。そう、大学でもかつて長時間朗読をするというスタイルの教授がいました。礼拝説教でも、いまも稀にそういう人がいます。この牧師は、形から言えばそのような分類をされるのかもしれませんが、私は全く違うと思いました。身ぶり手振りが大きいというのは、手話を知る者からすると、そこに意味を読み取ろうとしてしまうためにやや邪魔なのですが、それは、この語りが、決して朗読などではない、いまここに言葉が生きて働くものであるということの現れであるように私には思えました。
語りは、時にスピードを変え、口調を買え、表情もたっぷりに、まさに「語る」ものでした。これがもしラジオ放送だったら、少しばかり早口であるということを別にすれば、なかなかのラジオドラマとなったことでしょう。アナウンサーがその物語を、そこから生き生きとしたものを伝えようとするその営みのようでありました。
ただ耳だけで聞くということは、読書とは異なり、さっきのところは何だったか、と見直すことができません。語学教材ならリピート機能が使えたら何度でも確認して聞くことができるでしょう。しかしこの説教という場では、聞き逃したことは、聴衆自らが調べ直すことはできません。これが時間的制約のある説教という場のひとつの運命です。そこで、語るほうは、そういうことを前提として、聞く者が道を見失わないように、少しばかり聞き逃しても再び語ることでそれを取り戻すことができるように、また何度も強調することで、大切な伝えたいことが確実に大切なこととして伝わるように、配慮します。この牧師の場合にも、場面は次々と展開しますが、テーマとなる事柄については、それにまつわる言葉が随所で繰り返されます。早口で理解しようとしている間に音声としての言葉が過去に消えていってもなお、メッセージの内容が聞く者の心に残る秘密は、そこにありました。
この人は、塾で働いていた経験があるそうです。それは最初の紹介のときにちらりと言われただけでしたが、私は、その経験は大きいと思いました。やる気のある生徒ばかりとは限りません。引きつけなければなりません。そして、初めて聞く内容は、生徒たちは知らないわけだし、そこから説明を加えても、理解していくことは大変です。聞く側の知識や感情が辿りやすいような溝を心の中に刻みこむことが必要です。但し、溝が一旦できてしまえば、流した水はその溝を一気に流れていきます。言葉の速さは害にはなりません。問題は、溝を刻むことです。幾度も同じことを言うというのは、そのためです。ここが大切だと刻みこみます。聞く側は自然と、そのように理解します。脳神経学のように言えば、シナプスが結合し、同じ刺激で発火して信号が瞬時に流れる経路が形成されるわけです。
その溝ができないとなると、聞くほうはもうその話を自分とは無関係のもの、いま努力しても無理だというふうに諦めてしまうでしょう。またその逆に、もうできてしまっている溝だけをまた掘ろうとする営みがなされても、もうその道は造られているよ、と無関心になるでしょう。生徒からして、先生の話す内容が凡庸であれば退屈して聞かなくなります。あるいは、もう分かっているから、とそれを聞く意味を見出しにくくなります。説教でも、ただ記憶や知識を辿るだけのような凡庸な内容であれば、関心は薄れることでしょう。しかし私にとり、このときの説教は、目を開かれるような思いがしたのでした。正直に言いますが、私が一度も考えたことのないアイディアが出されたのです。私の心はときめきました。その視点があったか、と驚きつつ、喜びました。と同時に、私の中で、その視点に立つことで初めて見えてきた景色が現れたものですから、実際、説教者が言わなかったような方面にまで、私の頭の中はフルに動き回って、イエス・キリストの姿をそこに重ねて見ていたという次第です。後で確認したのですが、この牧師は、私に現れたその視野までは意識していなかったということです。いわば、先生の話を聞いて、この生徒は、ほかに習ったこととその授業とを独自に結びつけていた、ということです。私もまたひとりの塾講師として、生徒がこのようにして授業を聞いてくれたらうれしいと思っています。生徒がそのような反応をしてくれたら、実にうれしいものです。この私の話がそのように受け止められたかどうかは分かりませんが、私は私なりに収穫が与えられたと思っています。つまり、このメッセージに、生かす力があった、何かを生む力があったということです。
このように、とても有意義な、刺激的な説教を体験したわけですが、このとき初めに私が感じたことは、これはエヴァンゲリストのような語り方だ、という印象でした。歴史的にいろいろ問題がある表現かもしれませんが、「巡回伝道者」とでも言いましょうか。いまも、超教派で活動する、伝道団体があります。そこで音楽などを交えてメッセージの時をもちますが、そこでは音楽で昂揚した人々に、厭きさせない短時間で、キリスト教のメッセージを伝え、時にそこで回心、決心を促すというところまで突き進みます。このメッセージでは、時に早口でまくし立てます。話者の世界に興味をもってもらったと思ったら、(喩えは悪いのですが)マシンガンのように言葉を連ねて、できるだけ聞く者にゆっくり考える時間を与えず、メッセージを流し込むようにするのです。一般の講演会では、聴衆はそれなりに講演者に関心をもって臨んでいますし、それは話を聞く・聞かせるというだけの関係です。この講演を聞いたことにより人生を変えるのだというような意気込みは、語るほうにも聞くほうにもありません。しかしキリスト教の伝道者は違います。なんとか聞く者の人生が変わるようにと祈って語ります。神の言葉が語られ、それが生き働いて聞く者の心に入り、その心を変える、その人の人生が変わる、そのことが究極の願いです。もちろん、それをこじ開けようなどと人間的な思いを優先させると、聞く側にもそれは見破られます。そうなると逆に醒めていきます。語る者の言葉が神の言葉であれば、そしてそこに神の力が働くならば、驚くべき変革がそこで起こるのです。私はそういう体験をしたのですから、これは確かな事実です。
しかし、この牧師がエヴァンゲリストとは違うところがありました。それは、原稿を読んでいたことです。いえ、読むことが悪いというのではありません。舞台役者のように台詞を全部暗記して語るエヴァンゲリストとは違い、台本を片手に語る声優は、台本を読んでよいと思うのです(加藤常昭氏は記憶せよと仰っていましたが)。たとえ読んでも、恰もドラマで演じるように語り、ゼスチュアに思わず心情が乗せられるほどに、熱く、演技を超えてリアルに語っていたわけですから、悪いはずがないのです。ただ、視線が原稿から殆ど離れることがありませんでした。ここが違うのです。会衆の顔を見つめるような話し方ではなかった、という点です。
つまり、こういうことです。この語りは、聴衆を引きこむことに長けています。実際、引きこむ力があったと思います。そのときに引きこまれない者もいたかもしれませんが、それはそれで仕方のないことです。語る聖書の世界に、聴衆をどんどん引きこんだのは確かです。それは素晴らしいことでした。しかし、それは会衆の心を語る言葉の世界に向かわせるという方向性をもつものでした。塾の授業で言えば、先生の話の面白さに引き寄せたのです。なるほど面白い、よく分かった、という納得をさせてくれるのです。けれども、「分かる」ことと「できる」こととは違います。これは私もよく反省させられるのですが、よく分かる説明だったけど、テストで問題が解けなかった、という実態があるわけです。「できる」ためには、生徒の側が自ら問題に挑み、繰り返し練習するということが必要です。つまり、自分でやってみよう、とか、よし練習するぞ、とかいう気持ちを生徒に起こさせるに至って初めて、塾教師は授業を完了したことになるわけです。そのために、塾の授業では、先生が上手に話すだけでは不十分とされます。先生が模範を見せるだけでなく、生徒にやらせないといけないのです。そしてそのためにはまず、生徒を見なければならないのです。いま自分の投げた言葉が生徒に届いたか、その顔を見て確かめます。いまの説明では届いてないようだと思ったら、別の言葉を探します。自分の投げた球を生徒が捕球したか、その球筋を追っていくのです。確かに投げ込んだ球を辿って、それが届いたかどうかをよく確かめるのです。
説教で語った言葉が一人ひとりに届いたかどうか、見守る必要があります。そして、きっとこの人はいま受けた言葉を自分で現実に変えていく器となるだろうと思えるケースを見出すことができるように、語り続けることになります。語る者から会衆へ向かう方向で、球が投げられていたかどうか、そこにおいてこそ、伝道者の使命が果たされることでしょう。同じ内容のメッセージでも、それを聞く者はその都度異なります。そこにいる一人ひとりを見て、どう届いているかを確かめながら語る、これはまさにライブの醍醐味です。ライブとはLIVEですから、生ということです。「なま」でもありましょうが「いきる」こと、そして命のことです。神の言葉が命の言葉であり、生きたライブの出来事となっていくということ、それが説教という場面でしょう。この説教の場があるからこそ、礼拝は、神を礼拝することであると共に、私たちが神に生かされることにもなっていくのでしょう。いえ、むしろ神からまず先に、その命が与えられていることは間違いありません。こうしたことを伝えることもまた、ひとつのメッセージとなりうるものでありましょう。