礼拝の場所や開始時刻を変更してはいけない
2019年12月30日
旧約聖書の中では、この日に、というように集会の指定がしてあります。新約聖書は規定的ではありませんが、週の初めの日に集まっていた記事があります。キリスト教会は、よみがえりの朝を迎えた日曜日の午前中に、礼拝のために集うのが一般的です。昼前の時刻は、農作業への配慮が必要だったと聞いたことがありますが、たとえそうでなくても、なにかとそのくらいの時刻は都合がよかったのでしょう。しかし社会が複雑になってきて、日曜日の勤務がなされるようになるなどすると、たとえば早朝に礼拝を開く教会もあります。午後、あるいは夕刻という場合もあります。同じ教会が一日に何度も、というのも珍しくなくなりました。カトリック教会ではそもそもミサとして、何度でも開かれるのが通例だと思います。
中には、メガチャーチとして、振り分けないととてもじゃないが人が収容できないという、ちょっと羨ましいようなところもあるようですが、信徒も、都合に合わせて自分の出席しやすい時に出るという仕組みは、合理的であるかと思います。聖書的であるかどうかということについては専門家に譲るとして、日曜日に礼拝したいという思いを果たすのに、チョイスができるというのは有り難いことです。
しかしもし、そのうち次の礼拝は朝はありませんとか、午後はありませんとか、不規則に有無を変えるとどうなるでしょうか。午前に仕事や用事のある場合には、ふだんは午後に礼拝があるのでそれになら出られるなどという人は、とても有り難いものですが、それが、その日は午後はありません、というようなことになると、がっかりすることになります。(無牧教会が、巡回牧師の来る・来ないに合わせて多少変更をするというのには同情します。しかしそれでも、信徒が定刻に礼拝を開くというのが普通であろうかと思います。)
これは、教会に新しい人を招こうとする姿勢に反するものであることも明らかです。定時にしないということは、知らせた仲間だけしか招かないという意思表示ですから、教会に初めて来るような人や、時々来るような人を排除する制度であることは、言うまでもありません。ですが今回はその点については当たり前すぎることなので言及します。あくまでも信徒の信仰の立場から、もしかするとお気づきでない点について、気づいて戴こうと思ってお話しします。
この問題は、聖書の中から考えることもできます。また、信仰を理由に論じていくことも可能でしょう。人間の都合で変更するわけで、神を礼拝する集まりが、人の都合で神を振り回すことになっていることを肯定したくない、などと。しかし、聖書の解釈や信仰を根拠に話すと、それは個人の「こだわり」だと片付けられることがあります。ある人は信仰上、社会常識でも守られていることが守られていないと牧師に訴えたところ、それは「こだわり」だと言われました。こだわりだとは呼ばないでほしい、と何度か願いましたが、その牧師は「こだわり」というレッテル貼りを撤回することは、ついにありませんでした。
毎週日曜日の何時に教会が開いている、そこで神を礼拝している、それが教会の証しの原点であると考える私には、そもそも時刻をちょくちょく不規則に変更するということ自体が、信じられません。それは私の中では、神を礼拝する行為ですらなく、仲良し倶楽部の集会だとしか思えないのです。でも、そんな私の信仰も、先の牧師からは恐らく「こだわり」の一言で一蹴されるだけでしょう。同じ「信仰」という言葉を口にしても、それぞれ理解している概念が全く違うということはあるものです。
それで、実践上のこととして、実施者が気づいていないか、無視しているであろうことを、はっきり述べてみようかと思います。信徒の中には、礼拝を守る(この言い方を私は好みませんが、ここではまさに「守る」ので使うことにします)ために大変な苦労をしている人がいます。
クリスマス礼拝時刻が変更された――この場合変更というのは、元旦礼拝のように30分程度のずれを言うのではなく、数時間単位での変更という意味です――ために、出席できなくなった人がいます。いつもの時間帯ならば行けたのに、です。
日曜日に仕事などでなかなか礼拝に出られない人がいます。しかしなんとか仕事先に掛け合って、日曜日の礼拝の時刻だけは抜けさせてほしい、と願う場合があります。これが、いつも一定の時間帯であれば、もう会社としても、その時間だけ不在ということを認めてくれる場合があります。事業計画もまだ立てやすいことでしょう。しかし、それが時折、別の時間を抜けさせてください、という願いを立てることになると、会社の許可も出にくくなるでしょう。第一、信徒のほうも、しょっちゅう変更することを会社に言いにくくなるでしょう。こうして、毎週礼拝を守ることができたはずの信徒が、ついに礼拝に行けなくなってしまう、というようなこともありえます。
現実の仕事などの世界では、ずいぶん先のスケジュールまで決められていることが多々あります。礼拝時刻の変更が一年前からすべて定まっているのならば、まだ会社に言いやすい場合もあるでしょうが、信徒の中には、礼拝時刻のために有給休暇を願うということもありえます。ローテーションや分担においては、何ヶ月も前から決められますから、その日は教会に行きたい、と有給休暇を半日分とったら、礼拝時刻が変更扱いになって、なんのために休暇をとったのか分からないという事態になる、そんなことも十分ありえます。
会社とは限りません。友人と会うとか、家族や親類と何かするとか、たとえ日曜日でも、礼拝時刻が決まっているならば、先の予定でもいつでも安心して約束ができます。子どもを遊びに連れて行く約束をしておいたが、できなくなった、などということも考えられます。
一カ月前にはお知らせしてある、などと、実施側は言うかもしれません。しかし世の中の予定はそんなものではありません。好きな歌手のコンサートに、日曜日の午後に行ったらだめでしょうか。やっとのことで手に入れたチケットの時刻に礼拝が変更され、そこで奉仕担当が決まっていたなどということになったら、その人を苦しめないでしょうか。それとも、どんなふうに教会が礼拝時刻を変更しても、それに従うのが従順ということであり、自分の都合などを考えているのは不信仰だ、というレッテルを貼るのが教会というところなのでしょうか。
あるいはまた、神が定めたと考えるならば、なんとかそれを保守せんとする意志を貫くことも可能です。エリック・リデルが主の日には走らない、いかに国家の名誉を担おうとも、としたのは映画「炎のランナー」の通りなのですが、あの姿は、イギリス国民が怒鳴り立てたように「狂信的」である、といまの私たちも非難するばかりなのでしょうか。リデルが守ろうとしたのは、その時の都合で時間変更をするようなあり方ではなかったと思うのですが、どうでしょう。
牧師なり執事なり、時刻の変更を決める方々は、日曜日に教会に来ることにおいて、普通さして問題を抱えてはいない人であるのではないでしょうか。もちろん、多大な時間を献げ、教会のために労苦していることには頭が下がります。しかしやたら会議の多い教会は、そのために労苦を、というよりは、会議や拘束時間を減らすことのできていない、運営の拙さをこそまず問題視しなければならないでしょう。そのうち役員たちは、教会とはそういうものだ、というふうに慣れてきてしまって、いまやっていることが当然であり唯一の方法だと感じるようになります。これは世の組織が常に陥る事態ですから、そういうことに対して目を覚ましていることができたら、とよく思います。キリスト新聞からは近年そのような提言が多々なされています。「牧師夫人と呼ぶのをやめよう」「名前や住所などを来た人に書かせるのをやめよう(プロテスタント)」「初めて来た人を報告のときに立たせて紹介するのをやめよう」「兄弟姉妹と呼ばないようにしよう」「青年会が独身者というルールの奇妙さ」など、ごくごく当たり前のことばかりなのですが、これに対するベテランの方々からの非難も多々あります。ただし、キリスト新聞からは、礼拝の時刻を時々変えてみようとか、変えてみるのはどうなのかとかいう話題は聞いたことがないと思います。
戻りますが、教会の都合で礼拝時刻をいろいろ変更するという意見を出し、また決議した役員さんたちは、そもそも苦労して礼拝に出ているという信徒がいることなど、関心がないか、軽く考えているのかもしれません。教会に来てにこにこしていれば、この人は自分と同じように日曜日は一日時間がとれる人で、当たり前に休みなのだ、と思い込んでいるのではないでしょうか。牧師はもちろん日曜日の仕事の時刻が変わっても何の問題もないでしょう。執事たちも、学校の先生や公務員など日曜日が基本的に休みであるとなれば、礼拝が午前であろうが午後であろうか、そんなにダメージを受けることはないでしょう。ちょっと帰りが遅くなるかな、とか教会に一日いたぞ、とかいう程度の思いはあるかもしれないし、本当にお疲れさまだとしか言えないのですが、その時刻を守るために決死の覚悟や交渉をしている人がいるなどとは、あまり意識しないのではないでしょうか。だから、私からすれば聖書からも信仰からも問題の多い礼拝いじりのほうが、礼拝を守ろうとする信仰に基づく労苦よりも大切だというような結論を下してしまっている、と勘ぐってしまいます。
そもそも礼拝は、人が神を拝するとき。人が神に自分を献げるときでもあるでしょうか。自分の生活の中の一定の「時間」を献げるという意味がもし礼拝にあるとすれば、それは誰がなんと言おうと日曜日のこの時間、という献げ方が相応しいように思われます。都合により今週は土曜日にしましょう、とか、クリスマスが月曜日なので日曜日はやめて月曜日にまとめましょう、とかいうことは、少なくとも日本では殆ど考えられないような気がするのですが(アメリカでは実はあるという)。それだったら、人間の側の都合で日時を変更することが、その「献げる」スピリットに合致しないと見られても仕方がないのではないでしょうか。ただ誤解なさらないように。一日のうち複数回の礼拝があってはいけない、などと申し上げているのではありません。午前の時間をメインに置いたのはそれなりの伝統であろうし、いまもカトリックはもちろんのこと、プロテスタントでも、日曜日の早朝や午後、夜などにも複数の礼拝時間を定める教会がたくさんあります。これは日曜日に定時の勤務がある人にとってもですが、突如勤務が入った人にも助かります。それはもう献げられる時を献げるということで立派なことだと尊敬します。礼拝に向かう人も、司る方も、すばらしいことだと。やはり現代ならではの礼拝に出席するスタイルや事情というものはあって然るべきだと考えるのは当然の配慮であろうと思われます。
しかしいろいろな人がいます。日曜日の礼拝を守るために、その日の休みを会社と契約し、給料を若い頃に半分以下にされ、そのまま昇級もないままに長く勤めているという人だっています。でも、そういうのも「こだわり」(この語には歴史上、また語感上、わがままという響きを含みもちます)であって、この人が家族に負担をかけ、また毎月誰よりも多くの額を神に献げているのかもしれないなどということを、見る眼差しなどは持ち合わせない、そんな方々が、教会の礼拝時刻をいじって、それが自分たちの思う目的に合っている、と喜んでいるのだとしたら、どうしてそこが、聖書を語り、聖書の救いや信仰などを「教」える集「会」であると言えるのでしょうか。どんなに聖書に基づいた愛という言葉を語っていても、きっとパウロならずとも、違った音に聞こえて然るべきではないでしょうか。
教会は理想郷ではありません。だから、少し気に入らないことがあるからと言って、私とて、教会に反発するようなことはありません。それどころかこれまでいた教会の方々に尋ねてみてもよいですが、刺があるか丸いかと問われれば、刺など何もないと評してくれるだろうと思います。しかし、それでも教会が愛を失ったとき、つまり自分では愛だと思いながらそうでないことに気づかない、あるいは認めないような在り方が強くなったとき、これまで私たちは、そこを去ることには何の迷いもありませんでした。私たちは、人間関係を基準にしてはいないからです。人を見に教会に集っているわけではありません。だから、人間関係を優先し、神との関係を蔑ろにし、そのことを指摘しても変わらない場合には、そこは自分たちの居場所ではない、と考えて、動いてきました。そして、前回の教会での経験から、教会の役員というものに関わることはしないと心に決めました。私たち家族は、十字架のイエスを見続けています。それで、礼拝時刻を変えてはいけない、と幾度か提言してきました。しかしその信仰すら「こだわり」とされるのが実情なので、実践上、いかに教会として悪いことなのか、挙げてみたつもりです。できれば、礼拝を「守る」ために命懸けであるような方は、お声を聞かせてください。体に病気の爆弾を抱えながらも、まさに命懸けで礼拝に来ているような人もいます。礼拝に来るだけでずいぶんな出費を余儀なくされる人もいます。それは食費を削ってでも礼拝に出たいという信仰の故です。こうした命懸けの礼拝出席に対して無関心であってはならないと考えます。ただ、仮にもしそのような人が私たちのほかにいないようでも、私たちは命懸けであることをやめません。そういう「こだわり」をもっているだけであり、ほかの人に考えを押しつけようとするつもりは全くありません。私の考えていることが正しいとか、普遍的だとかいうつもりはないし、またもし仮に何かしらそれに価値があったとしても、それを分かってくださらない方はどうしても分かってくださらないのですから。