【メッセージ】光への道標

2019年12月29日

ヨハネ1:1-18

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネ1:4-5)
 
全国高等学校野球選手権。いわゆる「甲子園」大会は、高校の名を最も広く知らしめるメディアとなっているかもしれません。福島県にはこの高校しかないのか、と思わせるほど毎回出場しているのが「聖光学院」。キリスト教主義をうたう学校として相応しい名前だとも言えましょう。横浜のほうにある「聖光学院」はカトリックですが、福島のほうはそうではない様子。しかし全国的に「光」がつくとカトリック校かな、と思っておよそ当たるように思うのですが、統計上どうなのでしょうか。「光の国」「光の園」「光の子」などといった、組織や施設もあると思います。そういえば、ウルトラマンの故郷は「光の国」でした。これは、ウルトラマンを生んだ円谷一族がカトリック信仰をもっていたためで、ウルトラマンの設定や物語は、福音や聖書の言葉や内容が多々こめられているのでした。
 
もちろん、聖書には「光」という言葉がたくさん出てきます。単純検索すると、旧約聖書の153の節に出て来、新約聖書の66節の中にカウントされます。旧約聖書続編だけでも50節ありますから、やはりこれは常連の言葉であると見てよさそうです。意外なのは、パウロ書簡には6節分しかないということ。巻別に見るとやはりヨハネによる福音書が最も多く、16節に登場します。
 
そのヨハネによる福音書の冒頭部分は、非常に抽象的で哲学的とも言われ、神秘思想のようにも見られますが、ここに光についてのモチーフがよく現れています。いまここで、聖書の解説本を読もうというのではありません。この部分の全体は目を通しておきますが、その中から基本的にひとつのことだけをお伝えできればと願っています。
 
私たち教会に集う者は、自分が不思議な導きでここへ寄せられてきたことを知っています。それぞれに、ユニークな経緯があります。友だちに誘われて来たらいつの間にかここに居場所が見つかったというようなこともありましょうし、自殺しかねない中で聖書に救われたというひともいるのでしょう。ミッション系の学校でレポートのために教会に行かせられたらなんだか気に入った、という場合もあるでしょうか。だから、一人ひとり異なるこうした物語を一括りにしてしまおうとは思いません。ただ、意識はしていなかったことでしょうが、イエスの誕生を教えたあの「星」のように、神の栄光の現れの場所を、救いの主のいるところを、指し示していた光の存在があったとは言えるのではないでしょうか。
 
ヨハネの福音書は、「言」という語でイエスを表し、そこに「命」があること、またその命は「光」であったこと、その光は暗闇の中で輝いており、暗闇は光を理解しなかったことなどが語られています。「理解しなかった」はほかに「勝たなかった」とか「阻止できなかった」などの訳されますが、これらすべてのニュアンスを含んだ意味をもつ言葉が使われているとのことです。続いて、バプテスマのヨハネが紹介されますが、ヨハネは「光」ではなかったことが明言されます。まことの光、すべての人を照らす光について、証言をする者として、ヨハネは生まれたのでした。
 
ヨハネという名は、このバプテスマのヨハネの他に、ヨハネによる福音書、ヨハネの手紙というところに際立っており、新約聖書最後の黙示録にも、ヨハネの名が冠されています。福音書と手紙とは、恐らく深い関係があると思われ、同じ教団やグループの中で用いられていたのではないかと考えられます。このヨハネのグループで、神が光であるというようなスタンスで「光」という語が多く用いられるのを私たちは目に留めることができます。手紙のほうでは、神が光であり、私たちはその光の中を歩むのだという捉え方がなされています。福音書では、イエスが光であるとして、手紙と同じように光の中を歩む私たちがイメージされていますが、その光を信じるように、とも語られています(ヨハネ12:36)。
 
パウロもまた、闇から輝き出る光を告げ(コリント二4:6)、自身イエスと出会って回心したときに、光を見た(使徒26:13)とも言っています。福音書ではヨハネの他に、ルカもマタイも、光について幾度も言及しています。しかし、特徴的なことがあります。マルコの福音書です。マルコにおいて、イエスが終末のことを語るとき、「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。」(マルコ13:24-25)と言いますが、ほかに「光」という語が出てきません。日本語ではありますが、神の「栄光」ならば、この箇所の近くとあと二度登場しますが、光を直接表す語は、かの月の光しかないのです。しかもこの光は、月が見えるその単なる光なのであって、神やイエスを表すようなものではありません。つまり、実質マルコは、光について何も触れずに最初の福音書を書いたわけです。
 
パウロの手紙は、福音書とは一応別次元で書かれており、事実福音書の成立より先行していたのですから、パウロが福音書を参考にしたということは考えられないのですが、それでも、福音書の前身になるような思想あるいは言い伝えなどが何らかの形で存在したことは間違いないでしょうから、パウロが光のイメージを有していたことこそが福音書にある光の言及の根拠であると言い放つことはできないでしょう。それでも、パウロの思想を全く知らずして福音書を書いたとも考えにくいので、パウロの中の光の思想は、信徒の間では知られていたものと推測されます。闇から光に移された、あるいは闇の中に光が輝くという、パウロの考えは、闇と光の対比を、福音書記者にイメージさせたことでしょう。しかし、マルコはこの光というモチーフに、全く心を向けませんでした。ここが気になるのです。
 
マルコは、イエスの地上生涯を辿り綴るという、世界初の福音書という文学形式を実現しました。その中では、この土地を巡り歩くイエスの姿、そこに読者を誘おうとしていることは間違いありません。復活の話が元々あったのかなかったのか、それすら意見が分かれるところですが、マルコとしては、福音の初めから十字架の出来事、そしてイエスの死が確認できないこと、そこまでを、それこそ地べたを這いずり回るように辿り描きました。そこには、弟子たちの失敗や背信も平気で記し、後にその弟子たちによる教会の形成に一見不利な材料をふんだんに示しました。それでこそ、イエスという方の真実が明らかになる、とも考えられたのかもしれません。そのマルコの目に、イエスは光という形で捉えられていなかった、ということがここで予想されるわけです。
 
それがだんだんと、イエスを神格化していく。その表現に語弊があるならば、イエスを神々しいものとして描きたくなっていく。遠藤周作のように、地上でのイエスの姿を、無力な一人の人間として描くのは行き過ぎかもしれませんが、マルコのイエス像も、それに近い中で、但し奇蹟はあったことがふんだんに描かれており、教団のキリスト理解をまず地味に始めたという理解も可能であるような気がします。
 
さて、今日はここまで、堅い話で貫いてきました。聖書の謎解きを楽しみたい人は別として、自分にとっての光を考えてみたいという人には、退屈だったことでしょう。ここからは少し角度を変えて、光を受けてみようかと思います。
 
光があるから、物が見える。これはいまや小学生でも知っている理科の知識です。光が物に当たり、一定の波長の光を反射させる。それが私たちの目に入る。レンズを通して網膜上に像を映し、その像が視神経にて変換され、脳にもたらされる。視覚のメカニズムも、やはり小学生でもだいたい知っているし、中学生は全員が学習します。
 
しかし聖書の示す「光」は、どうやらそのようなメカニズムを想定してはいないように思えてなりません。その代表が、マタイにある次のフレーズです。
 
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(マタイ6:22-23)
 
最初ここを読んだとき、あるいは今でもそうなのですが、言っていることが理解できませんでした。しかし、いまの理科の教科書を念頭に読むのではなく、当時の人々がどのように理解していたか、を踏まえると、少し分かった気になりました。目を通して、外の光が体内に入っていく。このイメージをもつのです。まるでクリスタルの体みたいですが、ダイヤモンドの輝きというのが、入射した光が乱反射して、神秘的に美しく見えるというのと似た捉え方をしてみましょう。眼球を通して入射した光が、身体全体を取らす。この光の入口が濁っていれば、光は射しこみません。外から光が射しこまないということは、全身が暗いということであり、人間はその内に闇を抱えているということになります。
 
そうです。神が光なのです。しかも、その神の光に対して闇があるというよりも、神を受け容れない有様が闇だということです。マルコは、この点から福音書を綴りはしなかったものと思われます。そしてマタイやルカで、この光がだんだん意識されてきました。そしてついにヨハネでは、光全開といった世界を描ききることに挑みました。ヨハネによる福音書におけるイエスは、終始光に包まれています。まさにスーパースターです。そして、イエスに従う者がこのイエスを信じることを促されているという点では、どの福音書も同じであるとしても、ヨハネによる福音書となると、私たちが指し示すこの主イエスが、常に神々しい姿で輝いている存在として掲げられているように見えてきます。そのとき、私たちも、人々から見える小さな光であることができます。光の子です。私たちはどんなにみすぼらしい、惨めな姿をしていても、落ち込んでいるダメダメクリスチャンであったとしても、主イエスと出会い、主イエスを知っている限り、こちらへ行けば光に包まれるという地図と標識を与えられています。標識そのものは、光そのものでなくてよいのです。バプテスマのヨハネもただの道標でした。それほどの修行もできずつまらない私でも、どうぞこちらへと道案内ができれば役割を果たせます。光の世界はこちらです。その思いで、新しい時の中を、歩み始めたいと願います。



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