【聖書の基本】ヨブ記

2019年12月20日

ヨブ記ほど、人々の関心を呼んだ書はない、とも言われます。ひとは、いつの世でも考えたのです。神がいるなら、どうしてこんな不幸なことが起こるのか。神はどうして善人が苦しむのを放置し、沈黙しているのか。この問いに疲れた人は、信仰から去りました。この問いを懐きつつ、信仰生活を続ける人もいます。この問いを自分なりに克服して生きていく人もいるでしょう。このことを理由にして、神はいない、と言いはる人も世の中にいるのですから、私たちもある程度、何らかの態度をもつ必要があるかもしれません。
 
また、ヨブ記は難解であることでも有名です。構造からして付加したり混乱したりしたのではと見られる部分もありますし、ヨブに迫る3人の友の説得も、非常にレトリカルで何を言おうとしているのか(大筋は分かりますが)解しかねる部分も多々あります。まともに読んでいくと、何がなんだか分からない、ということも十分ありうる書であるのです。
 
それで、なんとか説教をしていこうとするとどうしてもヨブ記と格闘する人が出てきます。『あなたはヨブと出会ったか』(今井敬隆・新教出版社)はその代表で、講解説教を集めたもので、これを最後に著者は牧師を隠退しています。精神的に追い詰められたところがあったかのようですが、その講解説教でも、ヨブについてなんだか自分に与えられた試練のように重ね、ほんとうに格闘しているだけのようにも見受けられるのです。聖書の意味を問う姿勢でヨブ記を読むと、だんだん苦しくなってくるようなのです。
 
そこで、もっとどこかスピリチュアルにヨブ記に親しもうとするならば、ひとつ手にとって黙想するにも相応しい本があります。『主は取られる』(マイリス・ヤナツイネン;橋本みち子訳;キリスト新聞社)です。
 
今回は、私の多忙という個人的理由にも拠りますが、以前に書いたこの本の書評を提供しようかと思いました。
 
 
 聖書をご存じの方なら、この本の題名から、ヨブ記をすぐに思うことだろう。いわば不条理な不幸に見舞われたヨブという男のもとに、友人が来て慰めようとしたところが、やがてこの不幸はヨブ自身のせいだと責め立てられる、まるで劇の台本のような、台詞の連続から成る旧約聖書のひとつの書である。善人が不幸な目に遭うのはなぜか。神が助けないのはなぜか。古来、誰もが思うであろうような疑問に対するひとつの実例的な解答がここにある。
 しかし、このヨブ記は、そうした台本調な書き方であることや、つまりは芸術的な語られ方であるように見えることからして、論旨がはっきりしない、あるいは果たして誰のどの発言の部分が適切であり、いったいヨブのどこが善い点で、どこが悪い点であるのかなど、はっきりしない曖昧さが残ることも確かである。辛い体験をした人が励ましを受けることはあるものの、一般に好んでは開かれない旧約聖書であるのではないかと思われる。
 本のタイトルの横にサブタイトルとして、「大震災を経て――ヨブ記を読む」と記されている。東日本大震災を見たとき、私たちは、ヨブ記を思い起こすこともあったはずだ。どうしてこのようなことが起こるのか。私たちは、軽々しく、神は必ず逃れの道を用意してくださる、などとは言えなくなってしまった。クリスチャン自身、自らに向けて問いかけなければならなくなった。あの地震の意味は何だったのか、と。
 著者は、この震災を見て、この本を著したのではない。その前からこのテーマで様々な活動をしており、とくにグループで考え合うという機会を重視して伝道活動をしているという。今回のこの本は、最後に震災の痛みを引き受けながら、この自らのテーマであるヨブ記について、コンパクトに、しかし情熱をこめて、まとめたものだと見られる。
 もしネット検索で「よき知らせの学び」と打てば、見つかるだろう。または著者名でもいい。フィンランドの伝道師である。その集いには、クリスチャンでない人も参加して意見を言うこともできるという。難解な神学を用いるのでなく、イエスが自分にどう話しかけているのか、という声を聞こうとする姿勢であるように見える。その聞こえ方や聞き取り方に差異はあるかもしれないが、信徒であれ信じてない人であれ、この態度ならば等しく参加できるというのも納得できるような気がする。
 さて、肝腎の本の中身については、ここまで触れていないに等しい。ヨブ記を、グループでのディスカッションに用いることを前提に、章立てがなされているが、それはヨブ記にもちろん応じた形でなされている。
 著者は、苦しみを受けた、というそのことのゆえに、ヨブ記を深く読んだ。それはヘブル語でどうとか、歴史の中でどうとかいうレベルのことではない。自分の苦しみを、神が与えたことについて、ヨブ記の中に見出そうとしたのだ。つまりは、ヨブ記から、神の声を聞くことに懸命になったということである。ヨブ記は、正しい人が苦しみを受けるということがスタートである。なぜそのようなことが起こるのか。聖書は、ヨブ記において、その指針を示している、というのである。
 考えてみれば、ヨブ記は不思議な書である。旧約聖書は、歴史書であると言われる。もちろん、伝説だと言い切る人がいるのも確かだし、創世記の表現は私たちからすれば受け容れがたいものがあることについても、私は否まないことにしている。今の私たちが基準であるとすれば、私たちには馴染まないという意味である。しかし、そこには何らかの歴史に基づいた出来事が記されている。歴史的な意味からすれば、日本神話の比ではない。ところが、ヨブ記は、その歴史性が全く排除されているとしか思えない。いつのことなのか、どこでもことなのか、全く分からない。そして、歴史性を感じさせるものがどこにもない。まるでただの空想話のように、どこか抽象的な、そして物語的な会話が展開するだけである。そのくせ、神とサタンとの対話など、誰がどのようにして知ったか知れないような描写がそこにある。
 しかし、この著者は、ヨブ記を何度読んだか知れないという。その問いかけと思索の末に、ヨブ記のあちこちの、見落としがちな表現をも、人間心理と神の計画という視点を交えつつ、生き生きと輝かせ、つないでいこうとしている。
 そこには、苦しい者が神に問いかける真実がある。
 ヨブ記のそこに、そんな深い真実があったのか、と目を開かされる。自らの苦しみの解決のために聖書を通じて神と対話を重ね続けた人が示してくれる、聖書のいのちのことばがここにある。
 もはや、大震災だけではない。私たちは、この本により、真の癒しを受けることができるであろう。
 
 
もう一つ、もっと悲しみの中に沈んでいる人には、こちらの本を薦めます。『なぜ私だけが苦しむのか』(H.S.クシュナー)です。同じく私の書評を引用します。
 
 
 入手したのは、同時代ライブラリー版である。後に岩波現代文庫として発刊されている。
 邦訳版としての訳語であるが、なかなか味のある題である。また「現代のヨブ記」というサブタイトルが付けられている。
 息子を病で失った著者は、うちひしがれていたことだろう。そうした自分を見つめ、より多くの人を力づける言葉を紡いでいった。
 yukkie_cervezaさんという方が、Amazonの本書の書評に次のように投稿していた。 「著者はアメリカ人のラビ。その息子は生まれた時から早老症という病に冒されていて、14歳という若さでこの世を去りました。
 善良であることを心がけてきた自分になぜこれほどの悲しみが訪れるのか。
 神はなぜ私をかくも苦しめるのか。
 キリスト教徒やユダヤ教徒でなくとも自分の不幸を神からの理不尽な罰と見なしたくなるような経験を一度ならず味わった人はいるでしょう。
 この本はそんな読者に向けておよそ30年前に書かれました。」
 投稿はまだ続くのでだが、本書の内容は、これで十分伝わることだろう。
 日本人は2011年、神よどうして、と思うような出来事を自国に目撃した。メディアが発達するこの世の中であるから、写真や映像で、幾多のおぞましい自然の驚異を目撃することとなった。そこには、自分たちが築いた文明ですら、自分たちを破滅に追い込むということを如実に示す姿が映し出されてもいた。
 キリスト教のみならず、宗教者はそこに駆けつけた。しばし言葉もなく、ただ体を動かして、人を助けることに終始した。やがて空を見上げたとき、おそら誰もがく一様に叫んだ。神よ、なぜこのようなことになったのですか。彼らが何をしたのですか、と。中には、これは神の裁きだなどと嘯く人もいた。しかしそのような発言は、むしろ蔑まれるものにさえなった。真摯に神に叫ぶ者には、超越者からの呼びかけがあったことだろう。それとも、いまなお沈黙のままであるとでも言うのだろうか。
 なぜ私だけが苦しむのか。本書は、当初は売れることを期待してのものではなかったそうだが、多くの人の共感を得て、爆発的に売れ、読まれたという。それはそうだろう。こんなに心のこもった祈りのような言葉に、感動を覚えないはずがない。
 この本は、もちろん、ヨブ記とテーマが共通する。サブタイトルの通りである。ユダヤ教の視点で、しかも実体験を伴う知恵者がヨブ記を見るとき、ヨブが至らぬ者で神がすばらしい、というふうに読むものではない、ということを教えられる。もしそうなら、神がこの世の悪や不幸をも生んだ原因であり責任者であることになってしまいかねないであろう。著者は、これを回避するために、神はこの理不尽な不幸を止める「ことができなかった」のだ、と言う。そしてそのような神を、最後には赦すという視点すらもたらされる。クリスチャンがここだけ聞けば、なんてバカな、と思うかもしれない。けれども、災いに遭った人にただ寄り添い、その言葉を聞く、そこには、正義は通されなかったかもしれないが、愛があるのだ、と言う。祈りが奇蹟を呼ぴはしなかったかもしれないけれども、祈りは孤独でないことを教えてくれることがある、と慰める。
 邦訳は最初1985年に出版された。その前からアメリカで、そして多くの国で読まれ、ターミナルケアに携わる人の必読書だともされるようになった本である。
 震災に襲われた人にとり、特定の記念日だけがある訳ではない。自分を責めたりする精神的なもののほかに、実生活として苦難が伴い、それは日々刻々と攻撃してくる。希望がもてず、将来に不安しかない。毎日が、「主よどうして」という問いの中にある。忘れようと思えば忘れていられる傍観者の立場にある多くの人にも、何かしらそのような問題はあるとは思うが、より、天災や人災に苦しみ続けている人のことを思っていたい。そして、できるなら、本書のような知恵が伝えられるのであるなら、とも願う。
 
 
ヨブのようでなくても、悲しみや苦しみの中にある人の傷が癒されるようにと願います。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります