クリスマスと正月
2019年12月28日
クリスマスの雰囲気から、一気に正月の気分へ。日本社会だと、そうするしかないのでしょうか。欧米のやり方を踏襲すればよいというのでもないし、そもそもこの冬の時季のクリスマスでいいのかどうかも怪しいのですが、あまりにその変わり身の早いことに戸惑いを隠しきれないまま、教会生活を送ってきています。
そのうえ、「ほんとうのクリスマス」とか「クリスマスは教会で」とかいう、ベタなフレーズをずっと言い続けてきた割には、その教会における真のクリスマスが、正月の挨拶や景色に塗りつぶされていくのを当然のことのようにしているあり方の奇妙さをもはや何とも思わなくなっている現状があるように見えるわけです。
御用納めという時期、もちろん世の中にはそれとは関係のない仕事をしている人もいますし、私もいわばそれに近いタイプです。警察や消防、病院といった関係者も、ほんとうにありがたいものです。皆が一斉に休みをとる、というのは事実上不可能であるように思えますが、考えてみればイスラエルの律法ではこの安息日を一斉に守ったというのですから、大したものです。「命が惜しいならば気をつけるがよい。安息日に荷をたずさえ、またはそれを持ってエルサレムの門にはいってはならない」(エレミヤ17:19,口語訳)というように、信仰に熱心であればこれを守ったでありましょうし、事実現代でもそれが生きているというのですから驚きます。
聖書に書いてあるから、その通りにする。それは立派な精神ですが、事実上不可能です。律法すなわちユダヤの法律は、当地当時のあり方ですから、私たちにそのまま適用することは却って不自然でしょう。しかしまた、現代的にそれをどう解釈し運用するか、その判断も難しいものです。どうしても恣意的な操作が加わってしまいます。
そんなだから、その教会では、日本での習慣に対してこのようにしましょう、という呼びかけがあったりするものの、なかなかすべての人をひとつの決まりに閉じ込めることはできません。年始の挨拶や年賀状など異教の習慣だ、とけなす牧師がいても、それはそれで頑固でいいし、七五三でも豆まきでもどうぞ楽しみなさい、というくらいユルユルであっても、一概に非難することはできないでしょう。決まりというものは、守れないから存在するのであって、ほんとうにその決まりに誰しもが百パーセント従っているというのも気味が悪い気がします。また、そもそも守れていないからこそ、法という形になった、と考えることもできるでしょう。
パウロが提言するように、互いに裁き合うのはやめましょう(ローマ14:13)、というくらいの精神がちょうどよいのかもしれません。でも同時に、何をしても構わず罪もお構いなく、というのが適切でないように(ローマ6:15)、神の基準というものがあって然るべきなことも確か。いずれにしても、明確な決まりがあってそれに盲従しているのが、一番楽であるのかもしれません。自由は極めて不安定な綱渡りのようなもので、いっそすべての判断を誰かに決めてもらうほうが、責任を追わなくて済む、という考え方も大いに成り立つのです。
信仰の強さ弱さという点も、パウロは考慮していました(コリント一8章)。キリスト教の教義でこうなっているぞ、と迫るような場面もないわけではないのですが、それを押し進めると、ファリサイ派と同じかそれ以上に悪くなることがあります。これは現代あちこちで見られる、悲しい実態です。逆に言えば、あれほど律法に熱心で能力のあったファリサイ派の人たちがそういうところに陥ってしまったのですが、私たち凡人はどれほどのことでしょう。他人を非難することを口に出そうとした瞬間、ちょっと息を呑んで、それを言っていいのか、自分はどうか、と振り返ってみるとよいかもしれません。
ほかの人には強要するつもりはありませんが、私個人としては、教会で「あけましておめでとうございます」とはあまり言いたくないですねぇ。「今年もよろしくお願いします」はいいんじゃないかと思うのですが。ほかの人がどう言おうとそれに噛みつきはしませんが、こちらからは「おめでとうございます」とは言わないだろうと思いますので、どうか私が日本の正月に相応しい応対をしなかったとしても、気を悪くなさらないでください。