【メッセージ】星の道標

2019年12月22日

(マタイ2:1-12)

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。(マタイ2:10)
 
「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイ2:2)
 
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。(マタイ2:9-10)
 
 
伝説では、学者たちの来訪は、イエスの誕生から2週間近く経ってのことである、などとされています。伝説に過ぎません。マタイだけが記す、東方の博士たちの訪問。あまりにも有名ですが、簡単に経緯だけ振り返っておきます。東と言いますから、バビロニアあるいはペルシアといった地域からではないかと考えられますが、知識ある人たちがエルサレムに突然やってきます。学者たちというのは、伝統的には「博士たち」と訳されているものです。今だと「魔術師」などとも言われて仕方がない言葉ですが、かなり科学的な計算ができ、天体観測によって実用的な知識を得ていたと思われます。その星を観測しているとき、ユダヤ人の王となる方が生まれたことを知らせる星を見つけたのだといい、ユダヤの王であったヘロデのところにやってきます。世継のお祝いのつもりだったのかもしれません。しかしヘロデというのは、疑心暗鬼に襲われていたために、妻や子どもが自分の命を狙っていると怯え、身内を幾人も殺してきた男でした。身に覚えのない、ユダヤ人の王の誕生という言葉に、最大級の戦きを覚えます。これは自分を殺す成り上がりが生まれたという知らせではないか。エルサレムの人もこの来訪のニュースに、またヘロデが残忍なことをするのではないかと恐れます。ヘロデ王は、ユダヤ人の王とはキリスト、つまりユダヤ人たちの救いとなるメシアのことであると理解しました。あの預言者たちが語り、民衆が、ローマ帝国からの解放を望むときに、民族のリーダーとなってくれる偉大なダビデの末裔たる王を待望していることが、現実となろうとしていることを覚えました。これは潰さなければ。ヘロデは、知恵ある者をユダヤの中から集めます。メシアはどこで生まれると預言されているのか。聖書をよく知る者たちは、ミカ5章を引いて、ユダヤのベツレヘムであると答えます。マタイの記した引用はミカと異なり、ベツレヘムが小さく「ない」としているあたり、追究もできましょうが、ここではこだわりません。ヘロデは、学者たちを利用しようと考えました。よし、こいつらにその誕生したというメシアを探させよう。そこで、学者たちにその子のことを調べて教えてくれ、自分も拝みたい、と恐らく笑顔で演じたことでしょう。学者たちは探しに出かけます。すると、自分たちの国で見た星がまた現れて、生まれた王はこちらだと案内したと思いました。学者たちはこの星を跳び上がるほど喜び、行ってみると、幼子がいました。学者たちはその子を礼拝し、用意していた贈り物を献げます。さて、約束通りヘロデ王に子のことを報告しなければ、と思ったとき、夢の中でお告げがあります。ヘロデ王のところに戻ってはならない。学者たちは夢のほうを信じ、ヘロデ王に出会わないように、別の道を通って東の国に帰って行ったのでした。
 
物語としてもなかなかドラマチックで、また人の心理もよく描かれています。クリスマスの劇にはもってこいの場面になっています。しかし今日は、この聖書の記事の謂われや背景について解読をしようというつもりはありません。いつものことですが、私たちはいま、この学者たちの身になって、この情景の中にトリップしてみましょう。
 
学者たちは、星を頼ってここまで来ました。自分たちの仕事として、星を観測し、そこから暦を定めたり、吉凶を判断したりすることがあります。その中で、特別な星を見出したのです。これは尋常ではない、何かの知らせである。彼らなりに調べますと、どうやらユダヤの地域で偉大な王が生まれたことを示すらしいと知ります。世界に素晴らしい出来事が始まった。この目で見なければ。また、その王に献げものをしなければ。学者たちは、星が導くままに遠くからはるばる出かけて旅をしたのです。行く先は西、学者たちのいた地は確定できませんが、恐らく1000km単位の道程ではなかったかと思われます。福岡から東京よりも遠い場所へ、せいぜい駱駝を使って歩くのです。命懸けです。苦労も窮まりないでしょう。それだけの犠牲を払い、それでもこの王に謁見したいという願いが学者たちに起こされたのでした。
 
さあ、私たちが毎日変わり映えのないような人生を生きている中にも、出来事が起こります。何か、変化が訪れることがあります。決断が求められることがあります。さあ、どうしましょう。ゲームのように、簡単にやり直しの利かない選択が迫っています。受験・就職・恋人選び・結婚・家を建てる、とにかくいろいろなことがあるでしょう。誰か選んで、と頼みたくなることもあります。自分が選ぶということは、自分にその選んだ結果についての責任があるということです。これは緊張します。
 
この学者たち、旅に出るにあたり、一大決心をしたのではないかと思われます。まさに命懸けです。しかし、どうしても行かなければならない理由がどこまであるのか、分かりません。面白い星が出たから、好奇心で出かけよう、などと今の旅行気分で始められる旅ではないのです。費用もかかるでしょう。また、計算違いというか、その星を追って行っても何事もないかもしれません。途中で盗賊に遭い命を奪われるかもしれません。ユダヤの王に会えたからといって、何か報いがあるわけでもありません。この旅の決断、よくぞしたものと思います。
 
この命を懸けた旅において、星が道標となりました。とにかくあの星は王を教えてくれている。自分たちの計算と信念を頼りに、一生をこの目的のために懸けてもよいとの覚悟で、学者たちは、その星の動きにすべてを委ねます。あの星に従って行けば、必ず王に会える、少なくとも自分たちの計算が間違っていなければ……。学者たちは、この星を目指していけばいい、ただそれだけを信じていたのです。
 
初めて教会に来たとき。人それぞれ、いろいろなケースがあるでしょう。私は、先に聖書の言葉に衝撃を受けました。自分の間違いを否応なく突きつけられ、頭を殴られてふらふらになった状態でした。とにかく教会というところに行かなければ。聖書を教えてもらわなければ。でも――怖かった。そこに一歩足を踏み入れたら、人生が変わってしまうと思いました。そして二度と戻れない、そんな気がしました。私の場合、聖書を読んでみようと思わせた、一冊の本、そしてその本を、いいよ、と薦めてくれた友人。それが、私にとっての「星」でした。
 
その星が導く先に何があるのか。自分に絶望した私が、命を断とうかと思ったほどの時に、一縷の望みを見出して、聖書にまさに命懸けで臨んだということは、そこに救いを求めていたことになります。ついに教会に足を踏み入れたとき、もう後戻りできないという覚悟を果たしたとき、その先にきっと光があるものと期待しました。
 
学者たちももう後戻りできません。なんとかベツレヘムらしいぞという情報だけもらい、しかし実のところどうなんだろうと不安を抱えて歩き始めたとき、あの星が現れて、こっちだと言っているかのように、学者たちを導き始めたのです。このとき、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(マタイ2:10)とありますが、このような訳では、ここの凄さを伝えられないと思います。「もうばりめっちゃ喜びを喜びまくった」みたいな、まともな言葉ではないような言い方なのです。
 
そう、教会で、そして聖書を知ることで、「もうばりめっちゃ喜びを喜びまくる」ことへと至ります。でも待って。「そして王子様とお姫様は幸せに暮らしました」へ一気に落ち着いて終わるというのでなし、もう少し迷い道の状態を思い起こしてみましょう。私たちは選ぶとき、迷います。困ります。あるいは、うまくいったと思っているうちに、なんだか壁にぶつかってにっちもさっちもいかなくなる。前へ進めない。こんなはずじゃなかった。ああ、この壁さえなければ、と悩み、あるいはこの選んだ道は間違っていたんじゃないかと後悔し、元のあのときに戻りたい、などとくよくよし続ける毎日。そんなことだって、あるんです。
 
そのとき壁に穴を開けてくれるもの、あるいはそれまで見えなかった扉を開けてくれるものが、きっとあります。何かの出来事により急展開するという経験もあるでしょう。多くの人はそれを運がよかったなどと考えますが、その機会を神が導いたと気づくと、もっと喜べますよ、などと教会にいる私なんかはお薦めしたくなるのですが、そんなふうには簡単には思えませんね。前へ進めなくなったとき、いろいろな可能性が私たちの頭を過ぎります。時に、教会なんか関係ないや、と別のものに頼ってしまうことを考えます。そりゃ、教会はきれいな教えを言っているかもしれないけど、世の中やっぱりお金がないとやってられないよね、などと言って、理想は理想、現実は現実、とという常識的な路線で解決を図ろうとすること、これは教会で信仰深そうな顔をしていても、誰もが考えてしまうことなんです。時折、本気で2レプタを全部献げてしまったり、仕事をやめて神に祈って毎日を過ごします、などという人も現れることがあるんですが、キリスト教を信じたからといって、保険契約を解除するとか、貯金を全部教会に献金するとかいうことは、普通しないでしょう。そんな中で、私は、日曜日の仕事をできないと言って、入ったばかりの会社に辞表を出したというような、風変わりなことをやった張本人ではあるんですが。
 
しかし金にはやはり気をつけたいものです。社会生活のためにお金は必要であることを否定はしませんし、ひとを愛するためにもお金があるべきだろうと思うのですが、それがいつしかすり替わっていく罠があるのです。私たちは気づきません。生きるために必要だというつもりで考えていたお金が、いつの間にか自分の神になってしまうということに、気がつかないのです。そこは実に巧妙です。そして、どんどんその支配の下に流れ入ってしまい、ついにはそこから出られなくなる、ということがよくあるのです。お金を道標にしてしまうようになってしまう危険性を、そうならないうちに、知らないといけません。
 
学者たちは、星を道標としました。ここで落ち着いて確認しておくようにしましょう。道標は目的ではない、ということを。学者たちは、なにも星を見に来たのではないのです。星の出現を喜びましたが、星そのものが目的ではなかったのです。あの星は、それを目印として、別の目的を求め到達するためのものでした。自分を教会に導いてくれた人がいても、その人を拝むのではありません。自分に素晴らしい説教をしてくれ、洗礼の決断を促してくれた牧師がいても、その牧師を神とするのではありません。自分が困難なときに助けてくれた人や出来事があったとしても、それらを崇拝するべきではありません。これらの人や出来事は、確かに案内する星であったとしても、その先に私たちが見るべきは、キリストです。あるいはキリストに重なって見える神です。星はそれを指し示す、道標です。
 
神との出会いを体験し、救いを確信した人に向けてお話しします。今度は私たちが道標になりましょう。誰かから見て、神ってほんとうにいるんだな、と思わせるような存在、キリストの香りを放つ者となりましよう。なにも、立派な人になりましょうという意味ではありません。不思議なもので、どんくさい人でも明るく立ち上がる姿を見て、「この人にはなにかある」と感じる人がいるものです。ぱっとしないクリスチャンであったとしても、神とつながっているならば、何かをそこに感じる人はきっと現れます。神の霊とはそういう働きをするのです。だから、私たちは誰かの星になることができるのです。
 
いやいや、それを自分で言うのはちょっと恥ずかしいですね。「私はスターよ」と気取ってみても、ここにいるのは冴えない自分。時折、自己愛の強い人がいて、自分が可愛くて仕方がなくて、自分を自分で英雄視することがないわけではないのですが、普通は違うでしょう。自分は星のように輝いてなんかいない、と自分では思います。そうです、自分を誇る必要など全くないのです。自分を誇るようなことはしないでよいのです。でも、誇るべきものがあります。「誇る者は主を誇れ」(コリント一1:31、コリント二10:17)、確かにそうです。さらに「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(ガラテヤ6:14)とまで言いたいと思います。不思議と、新約聖書の中で「誇る」「誇り」という言葉は、殆どパウロだけが使っていて、他の筆者のものの中には、数えるほどしか出てきません。パウロは、自分の中に、学識や宗教的エリートであること、ローマ市民その他、誇るものをきっとたくさん持ち合わせていたのですが、それらをすべて「塵あくた」(フィリピ3:8)と見なすほどに、キリストを知ることの素晴らしさを体験しました。自分を誇る必要はなく、ただキリストを誇ればよいのだという姿勢をここに見ることができます。このキリストに救いがあるのだということを指し示すことだけに熱心でいれば、立派に星としての働きをなしたことになるのです。
 
学者たちは、星に従い行くことで、ついに産まれたばかりの王に会えました。しかし、ヘロデ王との約束に背いてまでも、夢の知らせを信じて、もはやヘロデ王のところには戻らず、それを避けるように、別の道を通って自分の元の国に帰って行きました。教会に行くようになって、それまでこの世で自分が当然と思っていた常識よりも、神の言葉のほうを信じるようになったことを、殆どのクリスチャンは知っているはずです。日曜日には遊びに行かなきゃもったいないじゃないか。せっかくのお休みなのに。こんな世の中の常識に反して、私たちは教会に集まることがほかのどんな遊びよりも楽しいと思っているではありませんか。私たちは、もう別の道を通って、自分の生活の場に戻ってきたのです。もうそれまでの人生とは違います。以前と同じように日常の仕事や学びをしていても、つまり学者たちにとっては元の国に戻ったのであっても、それまでの人生とは違う価値観をもつ、違う存在と変えられているのです。そこには、新しい道が備えられています。新しい生き方が始まります。かつてとは別の道が、祝福の道が、備えられているのです。
 
では、私を導いてくれたあの星は、その後どうなったのでしょう。道標としての役割を終えたので、もう関係がないのでしょうか。いえ、きっと違うと思います。星はずっと一緒にいるのだと思うのです。心が暗くなったとき、暗黒の夜の空を見上げたら、そこに星が輝いているはずです。ピカピカ輝いているか、かすかに仄暗くきらめいているか、それは分かりません。けれども確かに、星は私たちを見捨てることなく、いつでも共にあって、私たちを導こうとしています。だから、私たちは俯いてばかりいないで見上げましょう。自分の内側ばかり覗き込むようなことをやめて、大いなる神を仰ぐように、見上げましょう。あなたの星がいま、見えますか。



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