私は加害者

2019年12月18日

テレビでドラマや映画を見ているとき、いたたまれなくなって、消してしまうことがあります。残酷なシーンがあればそうでしょうが、基本的にそういうのは放送されません。やたらと恐怖を呷るのも苦手です。しかし、いま言っているのはそういうものではなくて、自分がそういう苦しい経験をしたことがある、そういうシーンに出くわした時です。
 
さらに言えば、自分が加害者であるということを見せつけられるとき、苦しくなります。
 
そういうことは、あるでしょうか。自分は誰かに害を加えたことなどない、と言い切れる人がいるかもしれません。私に言わせれば、これが一番悪いタイプです。自分が加害者であることに気づかないということは、日常的にそれを繰り返している、ということだからです。人間、肉体的な痛みを感じるのは、それを避ける反応をさせるためであり、痛みを感じない病気は、非常に危険であると言われます。釘を踏み抜いても気づかない、といった極端なことさえあるのだそうです。だから、自分は誰にも迷惑をかけていない、と豪語することほど、危険なことはないのです。
 
いじめという問題は、学校の中で起こっているから、それを外から見る大人が、それはけしからんと簡単に正義の使者らしく指摘できるのであって、傍から見れば解決できないほうがおかしい、というように無責任なことも言えるわけです。そして、大人社会で自らが平気でいじめをしていても、そのことに気づかない。
 
他人のしているいじめは、簡単に見えてきます。自分がしているいじめは、なかなか見えません。こうした原理は、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(マタイ7:3,ルカ6:41)によく現れています。
 
実例は挙げません。私もまた、こう記すことで、誰かを傷つけていることだろうと危惧します。そしてまた、傷つくくらいに感じないと、人間は自分の姿が見えないのだ、などと偉そうなことを言おうとしている自分がいます。どこまでも狡い者です。ひとは、自分のしていることが分からない生き物なのです。
 
それをなくすことはできないでしょう。それを修行なり知恵なりによって克服することを、古人はしばしば目指しましたが、おそらく方向が間違っていたものと思われます。私たちは、それはできないのです。けれども、人にはできないけれど、神にはできるということがあります。神は、互いに信頼する道を拓いてくれました。信頼してよいのだ、ということを身を以て示してくれました。私たちは、クリスマスを祝うこの時季に、そのことを知りたいと強く願います。まず私から。そして、私の言葉に触れたひと、誰もが。いつしか他人の悪口ばかり言っているような自分の姿に気づくとき、再びイエス・キリストの姿が、いままでと違った姿で見え始めるかもしれません。それを期待できるのが、またこのクリスマスと言われる時季であると思いたいのです。



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