【メッセージ】羊飼いたちは何をしたのか
2019年12月15日
(ルカ2:8-20)
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。……羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカ2:8,20)
クリスマスで一番絵になり、音楽になるのは、この場面ではないでしょうか。多くの教会で、12月25日直近の日曜日をクリスマス礼拝としたときに開かれる聖書箇所としては、統計をとると(とったことないけど)一番多いのではないかと思われます。羊飼いたちが牧歌的な景色の中で羊の番をしている、そこへ突然空から光が。降誕劇で子どもたちがマリアの次になりたい役は、この時の天使かもしれません。天使は、キリストが生まれたと告げると、天で大合唱が行われます。はっと我に返った羊飼いたちは、いざ行け、ベツレヘムへ、とすぐに向かい、生まれたばかりの赤ん坊を囲みます。ああ、天使から聞いた通りだった、救い主のお誕生だ、と喜ぶのです。
子どもたちも大好きですから、ここを描くイラストは可愛い羊と羊飼い。長閑な牧草地でしょうか。しかし、恐らくその景色はイメージとは大きく食い違うものではなかったかと思われます。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」とまず背景が語られますが、どの地方なのか、まずよく分かりません。ルカは、時折ユダヤの地理ついてあやふやな記述をしますから、ここも曖昧なままにしているのかもしれません。しかしベツレヘムへ行こう、と歩いて行くのですから、それなりの範囲に収まる地であったと思われます。現地を知る人ならば、あのあたりで羊が飼われていたのではないか、と予想することができるかもしれません。生憎私はそこまで土地を知る者ではありませんから、ルカ以下です。「その地方」を説明することはできませんが、ベツレヘムからそう遠くない場所であったということにしておきましょう。私たちは想像の翼をはためかせ、このクリスマスの出来事の時代へ、そして羊飼いたちのもとへ、飛んでいくことにしましょう。今日は、その羊飼いの立場で、視線で、この出来事を見つめていきます。
よく言われるように、夜通し番をしていた野宿生活が冬の情景ではないとすると、やはりクリスマスを12月に定めているのはこの記事には合わないということになるでしょう。ローマやその周辺の文化で、冬至は極寒の暗闇でした。新約時代より以前ですが、ローマの暦には、1月と2月には名前がない時代がありました。人が活動しないというのです。そして3月にようやく動けるようになったところから、一年が始まります。多くの文化では、春が一年の始まりです。日本もその部類です。今もなお「年度」は四月スタートです。ローマでは3月が一年の始まりですが(だから2月が短い)、その直前は凍てつく冬の最中でした。ただ、冬至は、それ以降に、気温は下がるにしても、太陽高度が上がっていきます。希望を抱くことが許されます。その冬至に祭りを行うことがなされていたので、そこにキリストの登場を象徴するという思いが重なったのではないか、と言われています。ただ、冬至の日付そのものがクリスマスにならなかったのは、やはりローマの宗教が関係しているとも言われていますが、関心のある方はどうぞいろいろ調べてみてください。今日はここでそれを探究するものではありません。
ルカの記述に戻りましょう。聖書はそもそも、人物の描写をしません。イエスはもちろん、多くの登場人物が、どのような容貌で、体格で、何を着ていたか、など殆ど何も情報が出てきません。男か女かもよく分からないのが実情です。羊飼いたちはどのような面々であったか、人数規模もまるで分かりません。そうしたことの描写には、全く興味がないのです。しかし、当時の人がこれを読めば、「羊飼い」という言葉から、一定のイメージは共有できたのだろうと思います。恐らく「取税人」だとか「漁師」だとかでも、そうなのだろうと思います。「羊飼い」は、私たちの思い描く牧歌的な可愛い人々とは縁遠かったものと思われます。
もちろん、ステレオタイプにそれを決めることはできません。が、羊飼いというのは基本的に肉体労働です。時に羊という野生の動物と真っ向から立ち向かわなければなりません。それから、イスラエルで最も人気があるダビデがそうでした。あの三メートルほどもあろうかというペリシテ軍のゴリアトに少年ダビデが単独で戦おうとするときに小馬鹿にするサウル王に対して、ダビデが言います(サムエル記上)。
17:34 しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。
17:35 そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。
17:36 わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」
17:37 ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」
少年にしてこうなのです。しかしそれは尤もなことだろうと思われます。イエスはこのダビデの子だと見られたことで、メシアと目されたのでした。ところで、羊飼いという職業は差別されていたとも考えられます。エジプトのヨセフにが父と兄弟たちをカナンの地からエジプトに呼んだとき、ゴシェンの地で迎えると、こう耳入れをしました(出エジプト記)。
46:31 ヨセフは、兄弟や父の家族の者たちに言った。「わたしはファラオのところへ報告のため参上し、『カナン地方にいたわたしの兄弟と父の家族の者たちがわたしのところに参りました。
46:32 この人たちは羊飼いで、家畜の群れを飼っていたのですが、羊や牛をはじめ、すべての財産を携えてやって来ました』と申します。
46:33 ですから、ファラオがあなたたちをお召しになって、『仕事は何か』と言われたら、
46:34 『あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます』と答えてください。そうすれば、あなたたちはゴシェンの地域に住むことができるでしょう。」羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであったのである。
エジプト人から見てそうだったというのみならず、羊飼いはそもそも城塞都市の中に住まうことができません。従って律法に従う生活をしているとも言えません。なにしろ安息日に休むことも不可能なのです。神殿に定期的に来るなどもできそうにありません。放牧生活は、草を生む動物を世話している以上、宿命的なのです。学問を会得する機会もなかったでしょうし、いわゆる教養ある身分だとは見なされていませんでした。下手をすると、人間のうちに数えられていなかったかもしれません。それでいて、彼らの育てる羊は犠牲の羊にもなりうるし、食糧でもあり、またその毛も産物であったに違いありませんから、羊飼いとは何とも損な役回りを演じていることになりましょう。
そんな羊飼いにこそ、メシアが生まれたという知らせが届けられた。ルカの筆は、このメッセージのために躍ります。天使が現れて歌う。それを聞いた羊飼いたちの単純素朴な行動が、嬰児のところへ吸い寄せられるように辿り着かせることとなりました。そう、羊飼いたちは、良い知らせを聞いて、素直に真っ直ぐにそこへ向かったのです。素直に信じたのです。ルカは詳述していませんが、「急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」とあるように、探したことは確実です。そしてどのような人々に対してだから分かりませんが、「この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」と記されています。すると「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」のでした。ここでマリアの心情が語られますが、今日は私たちは羊飼いになっています。最後に「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」ことに注目しましょう。これで、羊飼いたちの経験と行動とを辿ってきたことになります。繰り返しますが、今日は羊飼いの行動を追っています。
お分かりかと思います。私たちはこの羊飼いたちと似たような者であることができる、そのように捉えたいのです。私たち、というのは、キリストに出会った者です。いわゆるクリスチャンと考えて差し支えありません。クリスチャンは、この羊飼いたちの行動と重なるところがきっと多いだろう、しかしまた、ともすれば忘れがちになっているだろう、そのような観点から、最後に彼らと私たちとを重ね合わせて見比べていきたいと思います。
よいですか。クリスマス物語をお話しするのではありません。ヒーローであるイエスを中心には据えません。クリスマスの場面を飾ったマリアとヨセフになったつもりはやめます。羊飼いです。私たちは、羊飼いとして、この出来事を体験します。しかも、私たちはいまの私たちそのままで、羊飼いになります。私たちが、そのままこの物語に参加します。
私たちが教会に来るきっかけは何だったでしょうか。もちろん、人により様々です。生まれた時から教会に来ている人もいます。しかし、その人も、救いを知った以前のことを思い起こしてみましょう。私たちは「その地方で」暮らしていました。どこかは知りません。救われた体験をする前に住んでいた世界があると思うのです。神を知らずに真面目に生きていた人もいれば、悪い暮らしに溺れていた人もいるかもしれません。絶望と暗闇を感じていた人もいるかと思います。精神的に「野宿をしながら、夜通し」意に添わないことばかり毎日繰り返していたという経験もあるのではないでしょうか。家族と共に教会に来ていても、みんな何しているんだろうと疎外感を覚えていたような、そんなあのとき。
しかし、きっかけは突然に訪れます。聖書の言葉にドキリとした。説教の誘いにすうっと体が動いていくような気がした。もっと深刻に、もう死にたいとすら思っていたとき、聖書の言葉に呼びかけられたと感じたり、その言葉に支えられ、死なずに済んだという人がいるかもしれません。友だちに誘われて教会に来てみたら楽しかった、というのも、ある意味で突然にその機会がやってきたのです。自分から、救われるためにこのように聖書を読み教会に行ってやろう、などと考える人は稀だと思います。何かしら、その事件は突然にやってきます。羊飼いたちの目の前にも、「主の天使が近づき、」まぶしい光が辺りを包みました。
この時、羊飼いたちは、天使と向き合います。それは神のほうを向くのと同じです。そしてその告げる言葉に耳を傾けています。これは、神とのつながりが保たれることを意味します。神との関係ができるのです。私たちも、教会に来てだとか聖書を読んでいただとか、神に向き合っていたことになるし、そこで神からの言葉を受け、神との関係ができました。その時には自分にはそうだと気づくことができなかったかもしれませんが、振り返れば恐らくそのように思える思い出があるのではないでしょうか。
「さあ、」教会「へ行こう」という気持ちになったことを思い出してください。聖書にあった素晴らしい出来事が自分にも起こるかもしれない、と期待したかもしれません。とにかく苦しくて仕方がなくて、心が洗われるような場所に助けを求めたという人もいるでしょうか。すると、私たちはきっと「急いで行って、」行く先を「探し当てた」のです。いえ、行く先と言うよりも、本当に目指さなければならなかった、イエス・キリストを知るのです。キリストと出会うのです。ここに救いがある、ここに愛がある、それを体験します。確かに一般的にも偉人だと聞いていたことでしょう。宗教を開いた立派な人、くらいの知識しか持っていなかったかもしれません。けれども、そのキリストがどんな方か、特に、自分にとってどんな方であるか、という位置づけができた時が、きっとあるはずです。自分にとってキリストとは誰か、自分は神の前にどうなのか、自らに問い、また神に祈るように問いかけ、そして聖書の中のある人物の姿と重ねて見るなどして、自分と神との関係が定まります。信仰の決意をした、あの時のことです。
羊飼いたちはキリストについて聖書が説明していることを「人々に知らせた」と書かれています。実はここに時間順が乱れたような書き方がされています。この後になって「帰って行った」と、まるでその家畜小屋に「人々」がいたように思える順序を考えてしまうわけです。これはレトリックとして、帰って行った後に、人々に話したのかもしれません。あるいは、羊飼いたちはマリアとヨセフと幼子を見た後、しばらくベツレヘムをうろうろしていて、出会う人がいたらこの不思議な体験を話していたのかもしれません。そうして後、自分たちが元いたところに帰って行ったのだ、とするならば、記述は時間順に普通に描かれていることになります。私たちは、自分の体験を、「人々に知らせた」のではないでしょうか。家族に、教会に行ったことを話した。友だちに話した。それだけでもいい、これを「証し」と言います。中には、キリストのことを伝えようとの熱意を覚え、自分の救いの体験を語り続ける人もいることでしょう。これもまたもちろん「証し」です。少なくとも自分が見たこと、知ったこと、それを「人々に知らせた」というのは、多かれ少なかれ誰もがしているでしょう。「伝道」などと大げさなことを考える必要はありません。教会に行ったよ、その一言でも十分です。誰にも話さず秘密にしていることで心苦しく思っている人もいるかもしれませんが、恐らく、本当に誰一人にも話していない、ということはないと思いたいのですが、どうでしょう。
本当はここで、マリアが出来事を心に納めておくあたりについて味わうと、クリスマスの魅力をまたひとつお話しできるかもしれませんが、今日は私たちは羊飼いです。羊飼いたちは、このマリアの心情など知りません。私たちも、「見聞きしたことがすべて」聖書にあることと同じような体験をしたことがないでしょうか。自分に起きた出来事は、聖書の言葉にあった通りだ、という驚きと感動、それは、聖書に命を求めているクリスチャンであれば、多かれ少なかれあるだろうと思うのです。祈り求めよと祈ったら与えられた、という経験。もちろん願い求めた通りのことが起こったのではなかった、という場合もあるでしょうが、聖書の中にある失敗した人と似た体験になった、と感じるようなケースがあってもいいのです。神は生きている、私のことを知っている、そんな気持ちになったことが皆無であると、逆に、それっとクリスチャンって言っていいんですか、ということになりそうです。私たちも羊飼いたちのように「神をあがめ」ています。少なくとも礼拝に出席しているということは、それです。礼拝は、「神をあがめ」る行為そのものです。できれば同じ体験をもっている同胞らと共に、心ひとつになって「神をあがめ」るのです。
さあ、羊飼いたちは、こうして「賛美しながら帰って行った」のでした。自分たちのいち「その地方」に戻るのです。かつて神を知らなかった自分のいた世界です。でもそこにまた戻ります。悪の生活に舞い戻るのではありません。同じフィールドに、生活圏に戻っていくのです。礼拝が終われば、私たちは自分の家、自分の町、自分の職場、自分の学校へと戻ります。そこは、クリスチャンばかりがいる場所ではないだろうと思われます。教会にいるときには一応そうした仲間が共にいるわけですが、自分が独りになって元の場所に戻るとき、それはクリスチャンたちの少ない、あるいは全くいない世界です。以前は自分もその一人であったような、いまにして思えば寂しい世界です。でも、私たちはまたそこで生活します。そこで多くの時間を生きていきます。羊飼いたちはまた元の生活に戻り、神を忘れたのでしょうか。私はそうは思いません。幼子イエスと出合い、不思議な体験をしたことは、元の生活圏に戻ってからも、何かしら違う自分になっているのだろうと思います。私たちは信仰を与えられ、神を喜ぶことを知ってから後、神を「賛美しながら」、自分のフィールドに帰っていくのです。信仰生活と呼べるものは教会の中が一番分かりやすいかもしれませんが、周りに信仰者がいないその自分の場所で、自分の信仰生活が始まります。さあ、もう以前の自分とは違うぞ、といううれしさを伴いながら、また今日も賛美しましょう。
さあ、私たちは自らを羊飼いになぞらえて、信仰生活をする現在にまで、自分の足跡を確認してきました。今日掲げました、「羊飼いたちは何をしたのか」、その問いは、「私たちは何をするのか」にいま変換されます。過去の話であるような問いかけは、私たちの場面にもちらされると、「いま」と「これから」の話に続いていきます。いまここから、私たちの歩みには、以前と違うことが確実にあります。私たちはキリストを知っているということです。私たちがキリストと出会ったということです。さあ、いまここで、「私たちは何をするのか」、問いかけられていますが、心配には及びません。小羊として、イエス・キリストは私たちと、いつも共にいるというお方です。心にいつもイエスを懐き、自分の家へ、職場へ、学校へ、賛美しながら帰って行こうではありませんか。