【聖書の基本】羊飼い
2019年12月15日
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。(ルカ2:8)
羊飼い。ちょっとロマンチックな響きのある言葉にも聞こえます。牧歌的な雰囲気漂う私たちの勝手なイメージですが、実は重労働。基本的に肉体労働ですから、やわな体じゃ務まりません。
誰しもが学校に行けた訳ではない時代。文字を読めるというのは特別な教育を受けた人ばかりという環境。羊飼いたちに、いまの私たちが口にするような「教養」があったとは思えません。ただ体が丈夫で、動物に対しても怯まない勇気と、動植物や天候に関する経験的知識があれば生きていけた。これはまた、神の律法を知るエリートたちからすれば、蔑まれた階級でありました。なにしろ安息日の規定に従って生きているのでもありませんでしたから。
ダビデは羊飼いでした。少年ダビデは細身のハンサムに想像され、あの2メートルを遙かに超える体格のゴリアトに単独で立ち向かい、一撃で仕留めたカッコいいヒーローに見られていますが、そのゴリアトに、いわば報奨欲しさに戦いますとサウル王に告げるときの言葉を覚えていますか。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」(サムエル上17:34-36) ひ弱な青年にこんな真似はできません。相当な腕力があったのでしょう。ただ、鍛えられた軍人ではない素人の若者だからと、イスラエル軍の運命を託すことに躊躇した程度ではなかったか、と想像できます。
また、羊飼いへの差別感情は、エジプト人の眼差しを通しても記されています。羊飼いだったイスラエル民族の祖、ヤコブの子どもたちは、エジプトに売られたヨセフに助けられ、飢饉のイスラエルの地からエジプトに逃れてきます。そのとき、出迎えたヨセフが、兄弟たちに入れ知恵をします。「ファラオがあなたたちをお召しになって、『仕事は何か』と言われたら、『あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます』と答えてください。」(出エジプト46:33-34) どうしてこのようなことを耳に入れたのかというと、聖書の記者は次のようにすぐに解説を入れています。「羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであったのである。」(出エジプト46:34) そもそもエジプト人は外国人とまともに共に食事などはしなかったでしょうが、それにも増して、羊飼いという職業に対して軽蔑の心情を懐いていたことが推測されます。
羊飼いたちは、差別を受けていたとはいえ、彼らのもたらす羊は、エルサレム神殿の儀式において重要な献げものでありました。エリートたちと雖も、羊なしではそのエリートたる地位が築けなかったのですし、祭司たちの食事もままならぬことにならなかったことでしょう。そして神の小羊イエス・キリストが、その犠牲によって、私たちに命をくださた、ここに究極の贈り物があります。私たちはいわば労せずして、限りない恵みを受けているのです。
しかしユダヤのエリートたちは、羊飼いたちを蔑んでいました。自分たちのほうが優れていると思い込み見下していました。自分たちの生活が支えられていながら、それを支えている者たちを差別し圧迫し、虐げる。これは、私たち現代でも大いにありうることだと考えておきたい事柄です。自分の安楽な生活は、ふだん意識しないでいる多くの人の労苦に基づくものであるわけです。また、自分のささやかな手の業も、誰かの生活を、また命を支えている可能性を含みもつことを思いつつ、営んでいけたらと願います。まして、人を生かし命をもたらす神の言葉を伝えることを生業とするとあれば、その仕事がどれほど祝福され、また重荷であることかと思われます。
クリスマスの祝日の翌日、イギリスとその関係諸国では「ボクシング・デー」なる日が設けられています。ステファノの日ともされますが、クリスマスの祝祭のために休みがとれなかった使用人たちを休ませる日であり、主人が贈り物を箱に入れて持たせたことから、Boxing Day と呼ばれるようになったと聞いています。また、この贈り物は、貧しい人々のために寄付を募る箱ともされるため、一種の福祉の日として扱われていると言います。もちろん、スポーツのボクシングとは関係がありません。
私たちの気がつきにくい人々、あるいは気づいていても無視しているような人々がいるはずです。信仰は「見えないものを見る」ことだとも言われますが、見えていないものを見るためには、神に生かされて変えられた眼差しが必要です。羊飼いの出来事を通して、私たちはこのクリスマス、どんちゃん騒ぎではないところに、目を移していきたいと思うのですが、如何でしょうか。あの中村哲さんにしても、日本の多くのクリスチャンですら、殺されてしまうまではその働きについて知らなかったのです。なんと私たちは、大切なことが見えていないのか、見ようとしていないのか。クリスマスは、おもだった人はだれも気づかないところで、密かに始まった出来事だったことを、噛みしめたいと願います。