人権

2019年12月10日

世界人権デー。この日を含む一週間を、日本では人権週間と呼んでいます。小学生のときに、ポスターを描こうと図工の時間に言われ、テーマがこの人権週間だったことがありました。人権などという言葉の意味もさっぱり分からない頃でした。それなりに努めて理解しようとし、人が前向きに躍るかのような抽象的な図柄で塗りつぶしたら、なんと入賞したと言われ、なんぞ公の文集に「白黒」写真で載ったことがありました。
 
人権とは、人間としての権利というような意味なのでしょうか。権利などというと、定義や理解が難しくなりそうです。大切にされること、のように捉えてみましょうか。すると、古い古い日本語の聖書の訳語で「御大切」と訳された言葉があることを思い起こします。そう、今私たちの聖書にはこれが「愛」という語になっています。
 
先日加藤常昭さんのメッセージがラジオで流れていて、キリスト教の講演だけを公的機関がするのはどうかということで仏教の側からも同時に僧侶が呼ばれていたというくだりがありました。仏教では「愛」という言葉を良い意味では使いません。良いものは「慈悲」です。クリスチャンは、ともすればこのことをすっかり忘れて能天気に「愛、愛」と伝道していますが、これを聞く方では、良くないものとして聞こえてしまっているということが、十分にありうることを改めて教えられます。
 
「愛」は、「偏愛・我執」というような感覚の言葉だったのです。むしろ自らが憧れ求める方向性の強い「エロース」に通じるとも言えますから、「神は愛です」と言えば言うほど、クリスチャンの思惑とは違う意味で受け取られている可能性さえあるわけです。「あの人には愛が分からない」などとぼやくような真似をしていると、最も愚かな結果となってしまいます。そうでなくても、近代的な展開の中で、愛とくれば男女間の愛を著しくイメージさせる言葉でもあるわけで、ギリシア語で(聖書でそれほど数学的に明確に使い分けられているわけではないため)「愛」が幾重にも分かれて用いられていたのだと理解すると、日本語でそれらをひっくるめて「愛」としてしまったところに、誤解の根があったと言われても仕方がないような気がします。
 
人を愛すること。この一言だけで、十人十色の解釈が成立するかもしれません。それが「人権」の説明であるとなると、神の愛とは切り離して捉えることができるだけに、むしろ一定の範囲で共通理解ができる可能性が高くなります。そのような意味で「人権」を把握するようにすると、私たちは恥ずかしくなってこないでしょうか。なぜなら、私は今日も、瞬間瞬間に、誰かのことをちっとも大切には扱っていないからです。その人を愛していないばかりか、その人の「人権」をも認めていないのです。
 
新共同訳聖書で調べてみましたら、「人権」という言葉はもちろん一度も使われていませんでした。それはそうでしょう。が、「権利」という言葉は41の節にありました。法的な手続きや用語が随所にあると言われている聖書です。神と人間との「契約」という考えをベースにしていますから、それは当然でありましょう。法と権利という視点から、もう一度聖書の記述を読み解いていくというのも、ひとつのよい視点をもたらすのではないでしょうか。



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