【メッセージ】ふたつの沈黙

2019年12月8日

(マタイ1:18-25)

夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。……ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。(マタイ1:19,24-25)
 
竹下節子さんという著作家がいます。最近、一般向けにキリスト教についての本を多く著し、いまも次々と新刊書が出て来ています。カトリックの歴史に詳しく、いまフランスで暮らし、そこから私たち日本の中にいたら見えにくいものを教えてくれるような気がします。先般のローマ教皇の来日に先立っては、以前出版していた『ローマ法王』という本(講談社学術文庫)を増補改訂して出していました。コンパクトですが実に読みやすく、またためになる一冊でした。
 
その竹下節子さんが書いた本の中に『「弱い父」ヨセフ』というもの(講談社選書メチエ)があります。キリスト教における父権や父性について論じたものですが、そこでヨセフを「人々をゆるやかに結びつける謙虚なおとうさん」と位置づけていました。子を絶対的に受け容れる存在として、カトリックでは聖人として扱われるヨセフが、歴史的にどのように見なされてきたかを紹介しています。
 
マリアなら、クリスマスの場面で何をしたか、一般的にもよく知られています。しかしヨセフは比較的地味です。もしかすると、いてもいなくてもよかった存在のように見られているかもしれません。福音書でも、いつの間にかいなくなっているヨセフ。現代的に見るならば、イエスと血がつながっておらず、マリアに比べて親子の枠からひとつ外れてしまうヨセフ。今日は、マリアが登場せず、そのヨセフだけの出番です。思う存分、ヨセフと向き合ってみたいと思います。
 
マタイによる福音書の1章の後半で、イエス・キリストの誕生の経緯が紹介されています。ルカのように、マリアの許に天使が来るなどといったロマンチックな構成はありません。いきなり、婚約者のマリアが妊娠したというところからドラマは始まります。これは相当やばいです。編集者マタイだから、「聖霊によって身ごもっている」などと書けますが、当のヨセフにしてみれば一大事。ここには説明されていませんが、婚約というのは実質の婚姻の関係の中にあるものと見なされていましたから、夫以外の男と通じたら、姦淫罪に問われます。すると当時の律法では死罪です。
 
死刑にする権限はユダヤ人にはなくローマ側しかもっていなかった、というのは本当ですし、イエスもその理由で十字架に架けられたのでした。マリアが死刑になるはずがない、と見る人もいますが、政治的に裁かれたイエスと、民間での行為で裁かれるであろうマリアとはやはり違うのでしょう。公の場でイエスを死刑にするのは、ローマにしかできなかったのです。
 
そういうわけで、マリアはユダヤ人に見つかればリンチとも言える私刑に処せられることは目に見えていました。律法をガチガチに守ることに情熱を燃やすエリートたちが社会を見張っていますから、マリアのようなスキャンダルが流れれば、汚らわしくけしからんこととして、神の前に除き去ることに多くの人々は賛同したことでしょう。ヨセフの脳裏にも、当然そのことが浮かんだのだと思います。
 
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。(マタイ1:19)
 
まずこの部分に注目していきます。ヨセフは義しかった。マタイの福音書は律法を重視します。ユダヤ人の精神がよく貫かれています。そこで義という言葉は並々ならぬ思い入れと共に用いられていることが予想されます。しかも福音書の中で最初に用いるケースです。ヨセフのこの行動を、律法に適うものと見ているものと推測されます。
 
マリアが婚約期間、つまり実質婚姻届を出した後に、誰かの子を妊娠したのです。これを知ったときのヨセフの驚きは計り知れません。マリアから直接というのではなく、誰かを介して伝えられたのでしょうけれども、この瞬間の男としての感情は、やる方ならぬものがあったことでしょう。まず何が起こったのか理解できないところから始まり、なんでと問うたり、怒りもあったでしょうか、さらに、これからどうしたらいいんだという焦りや困惑が大きいかもしれません。もしかすると、どうすべきか、と正義を考えかもしれませんが、私だったらどうかを考えると、きっと世間体を考えただろうと思います。すでに祝宴を開くために人に世話を頼んでいたでしょうし、親類関係にも挨拶をしたり贈り物をしたりしていたことでしょう。少なくとも婚約をしたということで、親類その他に通知をしていたはずです。知れ渡っていたこの結婚が破綻する、それをどう説明したらよいのだろうか、面倒だ、などという思いも走っておかしくありません。
 
ヨセフは正しかった。それでマリアのことを表ざたにすることを望まなかった。表ざたというのは、マリアが妊娠したということです。これは事件です。法的には死罪に相当するからです。それで誰にも知られず、というのは無理だというにしても、少なくとも男の側からこの婚約を破棄してしまおうとしたことになります。「ひそかに」と新共同訳は訳していますが、新改訳の「内密に」も味わいがあります。公にしない秘密のうちに、ということですが、それによりマリアが罰されずに済みます。「縁を切ろう」というのも、「離縁」と訳されることが多く、法的にきちんとした処置をとろうという様子が見えます。ですから「ひそかに」というのは法から隠れてという意味ではなくて、法的に明白にするためにも、マリアの姦淫を内緒にしておく、という意味で言われているに違いありません。そしてこれは、ヨセフの優しさである、としばしば言われてきました。
 
2019年11月29日にFEBCの特別番組が放送され、その後二週間にわたりネットで公開されていますが、東八幡キリスト教会の奥田知志牧師が、約1時間にわたり、ホームレス問題と、そこに見出す福音を語っています。日本のホームレス問題については、最も大きなはたらきをし、また大きな発言力をもった方ですが、そのインタビューの初めのところで、この箇所を取り上げていたことが新鮮でした。
 
奥田牧師によると、ここでヨセフに厳しい評価をします。ヨセフはこの事態から一歩退いた、つまり「逃げた」というのです。それは、ホームレスの方が、家族から「切られる」現実を見続けてきたからこそ見える理解だったかもしれません。ホームレスの人は家族からも見捨てられ、引き取られもしない。正に「縁を切られ」ているのです。ヨセフはマリアとの関係を断とうとした。一見優しいようにも見えるし、そういう解釈を拒む気持ちはないけれども、奥田牧師は、ホームレスの人を、その家族たちが「切る」現実と、ヨセフがしようとしたこととを重ねて捉えたのです。
 
このインタビューでは、続いて、しかしヨセフが天使と出合い説得されること、そのときやがて産まれる子が「インマヌエル」と呼ばれるところと結びつけました。「神は我々と共におられる」、というこのメッセージは、ホームレスの方々とも神は共におられるのだ、という福音を明らかにし、東八幡キリスト教会はその生き方をするのだという方へ流れていくのでした。
 
マリアの妊娠を公にすることは、ある意味で法に適うことでしょう。律法違犯を見て見ぬふりをするよりも、正しく指摘することこそ、法に適う行動です。しかし、それをすれば、ヨセフはマリアを死刑に引き渡すことになります。自分を裏切った女だから死んで当たり前だ、それもひとつの道ですが、ヨセフはそれをしませんでした。曲がりなりにも自分と婚姻関係にあった女が、自分の訴えひとつで死ぬのは、気持ちの好いものではなかったことでしょう。確かに優しさかもしれませんが、ヨセフは声を挙げることを避けました。自分が面倒なことに巻き込まれること、さらに言えば、自分が責任を負うことから、逃れました。まさに奥田牧師の言うように「逃げた」と言えるのです。
 
ヨセフは、黙りました。この問題を叫ぶことをせず、沈黙しようとしました。責任を負うことを避け、発言をすることを選びませんでした。この一つの沈黙を、私たちは見ておきたいと思います。何か言えばその問題と自分とが関わり合いを始めますから、関わりから離れるために、ひとは沈黙するのです。
 
何かを言えば責任が問われるため、沈黙する。私たちは、日常あまりにもそういうことばかりではないでしょうか。しかし何かしら黙っているばかりもできないものだから、適当なヤギを見つけては悪口をぶつけます。ネットでは炎上などともいうし、ワイドショーでも誰かを悪者に仕立て上げるような言い方で視聴者の共感を得ています。政治家とくに総理大臣は悪口の対象ナンバーワンです。そこへは、沈黙しなくても関わることから比較的薄いため、沈黙する必要がなく、なにか政治家の悪口を言っておけば気持ちよいわけです。それさえも言えない世の中、憲兵に見つかると大変なことになると唇の寒い時代には、ほんとうに沈黙するしかなかったのでした。
 
さて、天使はヨセフに事態を説明します。にわかには信じがたいことですが、イエスと名づけるべきその子は民を罪から救う、聖霊により宿った男の子なのです、と。そしてインマヌエルと呼ばれることが伝えられます。いえ、不思議です。この後この「インマヌエル」という単語をマタイは一切書きません。だのに、イエスが「インマヌエル」と呼ばれると、大々的に報じられているというのはどういうことでしょう。本日はそれを中心にするわけではないので深入りはしませんが、多分にマタイによる福音書全体が、この「インマヌエル」つまり「神が我々と共におられる」のスピリットに貫かれていると考えて捉える必要があるでしょう。もちろん最後の最後でイエスが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と告げるのはまさにこのことだと誰もが思うはずですが、そのような言い回しでなくても、神が共にいるという福音を伝え続けているのだと構えて見ていくことが求められているというのです。
 
ヨセフはこのとき眠っていました。天使が現れて告げたのは、夢の中でした。それから天使の語ったことに従ったといいます。マリアを、つまり婚約ということが法的に妻になったことであるが故に、ここではもう「妻」と呼ばれつつ、その妻を受け容れました。わざわざマリアと関係をもたなかったとまで言って、産まれてくる子どもがヨセフの実子ではないことを明らかにするほどに徹底してマタイは描きますが、ヨセフには悔しさのようなものはなかったのでしょうか。男としてのプライドも捨て、どこの誰の子だか知れないような子を引き受ける。もちろんそれが聖霊によるものだと信じてのことでしょうけれども、天使の言葉をそのままに信じ、名前もイエスと付けたと書かれています。あっぱれな信仰でしょう。
 
不幸な事態から遠ざかろうとしていたヨセフは、天使の、つまり神の介入により、問題と向き合います。しかもそれは訴えてマリアを殺すという方向にではなく、ただ自分がマリアの夫となり産まれるその子を受け容れるという、超然とした愛により、すべての慌ただしい問題を静かに治めることを選びました。男として甚だできないことを、ヨセフは自分の責任として背負ったことになるでしょう。つまり、もう逃げることはありませんでした。このヨセフの行動が、沈黙しつつ逃げる態度とは反対のことを成し遂げたことになるでしょう。
 
さて、この記事を読んで気づくことがあります。ヨセフが、一言も言葉を発していないのです。ヨセフは正しい人であった。説明はあります。しかしその後、夢の中で天使が現れて、ひたすら天使が喋ります。ヨセフは黙って聞いているだけです。そして目覚めると、天使の言葉に従って行動し、マリアを迎え入れています。トントン拍子で事が進み、男の子が生まれ、天使の言った通り、イエスと名づけます。ヨセフは全く言葉を発した様子がありません。
 
古い話ですが「男は黙って……」とビールメーカーのコマーシャルが世に流れたことがありました。いま調べると、1970年のことでした。俳優の三船敏郎が起用され、男が呑むビールというイメージをつくろうとしたようでした。テレビCMでも声は発せず、ただビールを呑んで、「フゥーッ」と息を吐くだけ。声を出さずともこうした渋い演技だけで通用するような俳優さんが少なくなった昨今です。さしあたり、男だけを持ち上げて性差別だなどという意見はすみませんが横に置かせて戴きます。男にとり、舌先三寸で軽々しく嘘や思いつきを喋りまくるというのは、あまり格好の良いものとは思われてはいない様子。しゃべくりは面白いしそういう男性が好きだという意見はもちろんあって構わないわけですが、「不言実行」という言葉を、どこか頼れる男の姿に見ることがあるのは、確かでありましょう。言葉よりも行動。いえ、近年は造語として「有言実行」などと言い、ちゃんと宣言をしてから行動するのがよい、などとも言われますが、元来の「不言実行」をいわばもじって作ったものに過ぎません。ふだんは聞こえの良いことばかり軽薄に喋っておいて、いざという時にそれを行動に移せないという姿が最も情けないわけです。ヨセフの中の第二の沈黙は、この、行動として表される成り行きへ、無言で立ち向かう姿です。
 
ヨセフは、最初の沈黙で、責任を逃れるために沈黙することを目論みました。しかしそこへ天使、つまり神が呼びかけ、その言葉が告げられたとき、ヨセフはそれを聞いて、沈黙の中で行動に映しました。私たちもまた、表向きただの「沈黙」であるものに、様々な背景や未来像を映し出すことができます。沈黙してはならない場面で沈黙し、沈黙しなければならない場面で冗舌に軽薄なことばかりを語る。そんな自分の姿を思い知らされるような気がします。
 
しかし「沈黙」と言えばまた、遠藤周作氏の名作『沈黙』が思い起こされる人も多いでしょう。映画にもなり、話題になりましたが、神が沈黙しているという事態と向き合うことは、信仰者としてやはり大きな挑戦になるものだと言えるでしょう。アウシュビッツの時に沈黙した神に絶望して信仰を離れた人もいます。大震災に沈黙している神に疑念をもった人もいます。1755年のリスボン大地震は、万聖節に世界最大級の都市を襲い、人口の三分の一を失って建物の8割以上を破壊したと言われています。近代思想を神から切り離していくひとつのバックボーンとして働いたような気がしてならないのですが、このときにも神は「沈黙」していました。思えば、イスラエルの民は、神が語ったという聖書の記述とは裏腹に、その歴史の中でずっと、神の沈黙と向き合っていたように思います。
 
神よ、沈黙しないでください。
黙していないでください。
静まっていないでください。(詩編83:2)
 
敵の思いのままにあしらわれ、神を拝する神殿を建てればそれが破壊される。大国の力の前に弱小民族は虐げられるばかり。その後新約聖書が書かれた時代は、エルサレム神殿が完膚無きまでに叩き潰されてしまったのでした。私たちもまた、自分が心をこめてしてきたこと、誠実に営んできたものがダメにされることを経験しています。すべての苦労が水の泡ではないかと嘆くことがあります。神はどうしてこのようなことを私に経験させるのか、恨みたい気持ちになったこともあるでしょう。
 
それでも信仰しなさい。そのように励ます牧師もいます。でも、病気の患者は思います。同情する医師に対して、「あんたに何が分かる」と。牧師も心のケアを学ぶと、信仰するのですなどと居丈高に言うことはだんだんなくなり、ただ共に手を握り締めて涙する、そんな対応が増えてきたのではないでしょうか。遠藤周作氏の考えのように、イエスは奇蹟などなさず、ただ患者の手を握って泣いていただけではないか、という想像とつながるものがあります。それもまた、ひとつの癒しとなりうるからです。華々しい奇蹟をイエスがいま、辛いあなたに魔法をかけるように目に見せてくれるとは限りません。そうでないことが多いものです。ヨセフの前に突きつけられた事態も、とても受け容れられ難い運命でした。そんな人生は与えられたくないというような困難でした。その中で、最初の「逃げる」沈黙から、「行動する」沈黙へと、ヨセフは変えられました。このヨセフの生き方は、後の教会が聖人と仕立てるほどに、敬服すべきものとなりましたが、聖人であるかどうかはともかくとして、この沈黙から沈黙への変化に、私たちは目を留め、自分に与えられた沈黙の意味を噛みしめてみたいと思います。
 
詩編の詩人が自らに課した「沈黙」についての言葉を最後にお読み致します。
 
わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
神にわたしの救いはある。
……
わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。
神にのみ、わたしは希望をおいている。(詩編62:2,6)
 
沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。(詩編65:2)



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