【聖書の基本】インマヌエル
2019年12月8日
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1:23)
天使が夢の中でヨセフに告げます。ここで唐突に現れるカタカナの外国語のような、インマヌエル、気になります。そう言えば、これは西洋の人の名前に時折見かけます。年配の方でしたら、「エマニエル夫人」はセンセーショナルでしたね。美しい女優の、いまではどうということのないような描写でしたが、当時は多くの人が驚いたものでした。
私が大学で読んでいた、ドイツの哲学者・カントにしても、名はイマヌエルで、同じ綴りです。
この語はヘブル語から来ており、イザヤ書の中で三回登場します。
それゆえ、わたしの主が御自ら
あなたたちにしるしを与えられる。
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7:14)
ユダにみなぎり、首に達し、溢れ、押し流す。
その広げた翼は
インマヌエルよ、あなたの国土を覆い尽くす。(イザヤ8:8)
戦略を練るがよい、だが、挫折する。
決定するがよい、だが、実現することはない。
神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。(イザヤ8:10)
「エル」は私たちの言葉でいう「神」に相当します。マタイが記しているとおりに「神が我らと共にいる」という意味にほかなりません。イザヤは、敵がユダに押し寄せてくる中でも、神が共にいる、と呼びかけています。ユダは敵から護られることを叫んでいます。
ユダの王アハズは、アッシリアの脅威に喘ぐ隣国アラムから、反アッシリアの同盟をもちかけられます。共にアッシリアに対抗しようではないか、と。しかしアハズはそれを断ります。断ったものの、それでいざ反アッシリア軍がこちらへ向かってくるという情報を聞いて、青ざめます。「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(イザヤ7:2)のでした。そこへ、イザヤがこのように預言するのです。ここでアッシリアに頼るようなことを考えるな、帝国は人間のもの、神に信頼せよ、と。アハズは何かしるしを求めましたが、イザヤは、インマヌエルなる王が現れる、と力強く言うのです。
しかしまた、これは共にある「状態」を指すのではなく、神が人と共にある「存在」を意味している、という説明をする人もいます。だから、それは「男の子」を意味しているというのです。マタイはそこに、イエス・キリストの誕生の姿を見たのでした。イエスの救いの背景に、旧約聖書を大切な前提として扱うマタイは、ただ神を信ぜよというイザヤのメッセージを、救い主イエスの誕生に重ね合わせ、ここに「インマヌエル」なる方の現れを宣言したのでした。マタイはこの箇所のほかに「インマヌエル」という語をもう使いませんが、実はこの福音書の最初に表した「インマヌエル」の思想は、マタイの福音書に貫かれていると考えられ、福音書を閉じるときにも、はっきりとその内容を伝えて、筆を擱くのです。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)