読解力とゲームの害

2019年12月8日

国際学力調査で、日本の15歳の学力が読解力において15位となり、8位からかなりダウンしたことが先週話題に上っていました。数学と科学はよかったということですが、文章読解において落差が見られたという点がとくに挙げられていたのです。意を汲みとることには長けていても、伝わるように表現することに劣るという傾向は、政治家の発言を見ていても歴然としているわけですが、やはり順位を大きく落としたというのには、何かしら原因を見出すことが求められていると言えるでしょう。新井紀子さんの指摘を裏付けるような調査結果となったことで、ますますこの「読解力」というテーマは、重くのしかかってくることでしょう。それが高校の国語を大幅に変えようとする流れに棹さすことになるのか、それとも英語の入試制度のように修正に迫られるのか、意見が分かれるところだろうと思います。注目すべき課題だと言えるでしょう。
 
同じ時、社説によく上がっていたのが、長時間のゲームに問題があるという話題でした。これも言わずと知れたことではありますが、ゲームにのめり込むことで、心身に不都合を招くというデータでした。こちらはどう考えてもそういう結果にしかならないと思われますが、私にしても、ふとした息抜きに軽いゲームで気を紛らすことがありますが、これも下手をすると時間ばかりが過ぎているということが、ありえるので、やはり人によっては捕らわれてしまっているということがあるのだろうと理解できます。電車でスマホに見入っている姿は姿勢からしても健康によくないことは一目瞭然ですが、決して気分転換などと呼べるようなものではなく、言葉は悪いですが、退廃的な空気さえ漂う風景に見えて仕方がありません。その反動か、最近少しだけ、読書をしている人の姿を見ることが増えました。やはり気づく人は気づいているのだろうと思います。
 
それぞれの問題の要因を、画一的に決めることはできません。ゲームについても、そうでもしないと子どもの精神が安定しないというような環境があるかもしれないし、大人にしてもそうです。前者も、そもそもの読書量の減少が、どちらが原因となっているのかも分からないし、溢れる書籍とどうつながるのかということも疑問ばかりです。
 
しかしまた、こんな考えも可能かもしれません。スポーツにしてもそうですが、一部の若者は以前と比べても非常に能力が高くなったことを示しています。飛び抜けた逸材が現れ、物怖じせずに国際大会で力を発揮しているのは事実です。文才の長けた若者が現れているのも本当です。学力の低下などと言われても、皆が同じように悪くなっているという意味にはなりません。一部が秀逸になったとしても、低下する数が多いと、平均は下がります。ですから、いわゆる底上げをしないと平均値は上がらないという事実があります。しかし、果たしてそれがすべてなのか。計っているその「学力」は、本当にすべての人に必要なものなのか。
 
いろいろ問題があります。しかし現代社会で生きていく、少なくとも少しでも良い暮らしに恵まれるためには、その「学力」が欠かせないから、ひとをその能力に応じて扱い、「学力」がなくても人生は幸福になれる、だなどと無責任なことを言わないでほしい、という声も真実です。だいたい、自らは「学力」のある出世した人々が、制度を定めていると言え、自らは安全圏にいるようなある程度の「学力」を備えた庶民がそれに従っているような面もあり、社会の中で「学力」は生きるためにも必要なものとなっているから、「人それぞれ能力を活かして幸せを求めればよいから、学力は関係ないよ」などという冷たい言い方をすることはよいものではないはずてず。
 
それでも、それは、そのような社会の仕組みにも問題があるのであって、「学力」という枠に押し定めない生き方を存分に認め合える社会的価値観が定着するときに、もしかするとその枠から解放されるかもしれない、との期待をしてはいけないでしょうか。すでに障害をもつ人がこの枠から外されているところに異議を唱える人がたくさんいます。そして障害をもつ人は生きてはならないなどという、極端な思想さえ漂っています。もちろん、ここで「学力」と「障害」とを相関関係のもとに言っているようにも聞こえてしまう点はよろしくないのですが、そういうことが言いたいのではなく、私たちの社会の価値観や一定の、あまり気づかないような「前提」について目を向けたいという意図であることをご理解ください。
 
国際比較は、教育が一定の普及をしているという尺度にもなります。スポーツが得意でない子がいるのと同様に、算数が苦手な子もいるし、文章を綴るのに困難をもつ子もいます。人と対話するのが苦手という子もいるし、人に関わることでいきいきとする子もいます。今回のデータで、それなりに上位にあることは、それなりに国語教育が行き渡っている証拠でもありますが、読解というのは、生活に必要な標準を少し超えたところのものを計っている可能性もあります。但し、「論理国語」が目指しているように、契約書やマニュアルの読解という点はある程度必要になることでもありましょうから、そうした点までが蔑ろにされるのは問題が多いと言えますから、順位だけに引っ張り回されることは控え、その内実を分析する人が現れて然るべきでしょう。
 
ゲームやコンピュータは、一定の枠の中で能力を発揮する、あるいは利用すると効率のよい分野です。それより広がるものに目を向け、体験していくことを抜きにするような錯覚を起こしてはいけないと思われます。私たちは、しばしば自分は「考えている」と口にしますが、その多くは「感じている」程度のものに過ぎません。感情や損得勘定から、それを正しいと主張する場合が殆どです。もっと「考える」こと、敢えて言うなら「思索する」ことが求められます。近年の政策の英語の強調は、英語ができて国際的に働ける兵士を生産したい気持ちはあっても、文学部の圧殺は「思索する」人間を減らすという目論見があるように思えてなりません。偏見なのでしょうが、これら同時期に話題に上った「読解力」と「ゲームの弊害」という問題が、一時的な話題で終わるものではないことを願います。「思索する」ことへの危機感を持たねばならないと考えています。



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