冴えない

2019年12月6日

ダビデのところに、預言者ナタンが、恐らく相当な怒りを以て飛び込んでくる。しかし王に対する儀礼や立場を弁えて、静かに寓話を――事実のように――語る。貧しい羊飼いの愛する羊を、有り余る羊をもつ金持ちが奪い取ってしまった……。
 
自分がダビデのように恵まれた金持ちかどうかはともかくとして、霊的には、神から十分恵みを受けて救われたという信仰をもつのがクリスチャン。なにしろ罪の意識に支配されることから解放され、赦されていると受け止めたならば、大胆に恐れなく行動できるし、なにより喜びの日々です。
 
イワン・カラマーゾフの言葉であれば、「神がいないのならばどんな罪でも赦される」とくるのでしょうが、あいにくクリスチャンは、「神がいるからこそどんな罪でも赦される」というくらい、ある意味で厚かましいのですから、堂々と生きていけるわけです。しかし、そこに罠がないわけではありません。そう、図に乗ると、だんだん、ただの厚かましさへと膨らんでいき、高慢になっているのになおかつ気づかないということが起こります。ちょっとばかり褒められると、自分が何か偉い者になったかのように、威圧的になり、また失礼なことをしでかすことにもなります。
 
しかし私が知る限り、そんな自分を思い知らされる経験を、神はちゃんと用意してくださいます。人の並びから出る杭は打たれるというのは個性を摘み取るばかりですが、人間の限界の境界線を踏み換える杭を打つことを、神は時折なさいます。
 
そうだ、あのときにはとてもこんなふうではなかった。こんな人間は傲慢で威張っていてどうしようもない奴なんだぞ、と想像したことがあったことを思い出せたら、いま自分がまさにそれに該当する者になってしまっていると痛感します。ペトロだったら、あの鶏の声で、自分の馬鹿さ加減を思い知らされたというところでしょうか。私たちも、そんなことがなかったでしょうか。いえ、他人のことはよいのです。私は、あるのだし、今週もそういう思いに包まれてきました。まだ気づいていない愚かさもあるのではないかという恐れもやってきます。それはきっとあるでしょう。
 
自分の無知をごまかしてきたことが明らかにされたとき、惨めな思いにもなるし、凹みます。どうにも自分がここのところ、何かしらのミスを多くするようになってきたことも自覚しています。以前も、そのように感じていた時期がありました。しかしミスの頻度は増えたその時からはまた同じくらいの状態を続けてきていたつもりでした。しかし、どうにもうまくいかないのです。仕事でもオーバーヒートしている感があります。そちらは自転車操業でなんとか間に合っていけているかもしれませんが、ゆとりのない仕事はプレッシャーです。そしてごまかしが混じってきます。
 
そのようになると、ひとに迷惑をかけることになります。自然、人間関係もおかしくなるでしょう。不具合のスパイラルに入ると、なかなか抜け出せません。まだ気づくだけましなのかしらと自分を慰めても、事実は変わるわけでなし、見えないナタンがこちらを指さして迫ってきていることには違いないのですから、厳しいものです。
 
さあ、こんな冴えない自分ですが、それでも立ち上がることができるのが、キリストの力だ。私じゃない。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります