【聖書の基本】いいなずけ
2019年12月1日
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。(ルカ1:26-27)
今日は「いいなずけ」に注目します。そもそも若い方々、「いいなずけ」という言葉が通じるでしょうか。普通漢字で書きます。「許婚」です。読めませんね。しかし漢字で書くと、結婚の約束をした相手だということも、少しは分かりやすくなるでしょう。もちろん「婚約」というような内容ですが、今私たちが口にする「婚約」とは違います。「言い名付く」というような意味でしょうか。男性が、女性の名を知ることに特別な意味合いがあったことからそのような言い方になったのではないかと言われています。その子たちが幼い頃から、将来結婚させるということを親が決めている、そのような状況が背景にあります。
来年のNHK大河ドラマに登場するはずの、明智光秀の娘・玉(子)は細川忠興の許婚であったと思います(歴史に詳しい人のお叱りを受けるかもしれません)。そしてキリシタン信仰をもち、ガラシャという霊名をもらいます。ガラシャとは「恵み」という意味のラテン語に由来します。私たちは、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」という天使ガブリエルの言葉と、このことを重ねて味わうことができるでしょう。
さて、「いいなずけ」はユダヤにおいても、そのように親が決めるというのが普通であったと言われていますが、幼いころから決めていたというのは、日本でも武士や貴族など家を重んじる身分ある人々のことだったでしょうから、そのようにユダヤでも、庶民が幼いころに決めるということがあったようには思われません(分かりませんが)。ただ親同士の話がつくと、婚約となります。そのとき花嫁料などというように、金品の贈呈が互いに交わされることになるのが普通でした。花婿から花嫁の家族へ、また花嫁の父親が花婿に、贈り物が贈られます。花婿から花嫁に贈るものもあったはずです。これで婚約が成立します。これが公のけじめで、この時から夫と妻という関係に入り、「いいなずけ」の関係に入ります。そして、結婚状態と同じ権利や義務を有するものとなりますので、姦淫在も適用されます。こうなると、一体結婚とどう違うのかという疑問が湧いてきます。
旧約聖書でも、若い男が気に入った女を見つけては、親に相談して取りはからってもらうといった様子が描かれています。古くは血なまぐさい事態もそれで起こっていますが、気をつけて聖書を読んでいると、そのような場面にいろいろ出くわします。しかし場面として出てくるのは、祝宴の場面です。それは家族をはじめ、友人や知人を集めてのパーティのようです。多分に婚約から1年以内ということだったでしょうが、結婚というのはこの祝宴を普通指し、それは恰もいまの「披露宴」のようなものに見えます。とすると、私たちの感覚からすると、聖書の「婚約」が私たちの「結婚式」であり、聖書の「結婚の宴」は私たちの「披露宴」であるくらいに受け止めると、少し近いのではないかと思われます。
ただ、ユダヤの祝宴は一週間くらい続くのが普通だったと言われます。旧約聖書にはそのような様子が幾度か描かれていますし、新約聖書でも、花婿を迎える十人のおとめの話はそれに基づいているのではないでしょうか。多分、この宴の時に「床入り」だと思います。花嫁がバージンであったかどうかを確かめることは律法の中でも触れられていますが、普通は花嫁の母親がそのしるしを調べたのだろうと思われます。
また、聖書時代のこの結婚は、女性はいまの中学生くらいにはもう結婚していることが多く、男性も高校生か大学生くらいではないかとも言われています。しかしそれは個人的に様々なケースがあったことでしょう。ヨセフが早死にしていると推測されることから、ヨセフは高齢に扱われていることが多いのですが、真実どうかは分かりません。いずれにしても、いいなずけであった二人は、妻だとか夫だとか呼ばれていて、マリアが身ごもったことで姦淫の規定が適用されることになったための苦悩がヨセフを襲うことにもなるわけです。