世の中を知る・教会を思う

2019年11月24日

中学生に公民の話をしていると、やはりと言ってはなんですが、中学生が社会のしくみについて知らないことが多いと気づかされます。純朴である彼らを大人社会の汚い考え方に染めるのは気が重いのですが、伝えないわけにはゆきません。
 
先日も経済の話のとき、テレビの民放やSNSが無料で使えることを、それでよいかどうか問いましたが、言われて初めて彼らは、無料って不思議だなという意識が生じたかのようでした。ただお得なサービスなのだと安心していたわけです。後者は個人情報の提供ということもありますが、どちらにしても、広告やスポンサーという問題が隠れています。つまりその分、私たちは商品を、元来の商品価値よりもずいぶんと高い代価を支払って購入しているという構造を把握しておかなければなりません。
 
タダより高いものはない、という諺も、このごろではあまり口にされなくなりました。けれどももっと自覚されてよいことのように思われます。
 
また、その背後には、「世に騙される人は多いけれど、自分だけは違う」とか、「自分だけは特別だ」とかいう心理があるのではないか、と考えてみるのも一案です。この構え方が膨らんでいくと、自分を神とするという、聖書で最悪の状況に陥ってしまいます。いえ、この最悪の状況があるからこそ、自分だけは特別だと思うようになるのだ、という見方もありうるかと思います。
 
さて、タダより高いものはない。その背後には、心を許させておいて、最初の損の何倍もの利益を奪い取ってやろうとする魂胆があることに気づくべきでしょう。よく新聞の折り込みにあるのですが、臨時に店舗を構え、そこで食料品や貴金属などを、やたら安い価格で提供しますという、怪しい広告。でもこれを怪しいと感じない人がいたら、これは大もうけだと出かけることでしょう。会場に行くと、他の高価な商品を勧められ、そしてその勧め方がプロなわけで、とんでもない買い物をして帰ってしまうということになりかねません。後で思い直して返品しようとしたら、もうその店舗は消え失せている、というからくりです。
 
ところが、教会は、そして聖書は、福音をタダで提供するのが基本です。これが怪しまれるからと言って、子どものクリスマスなどでも、百円でも五十円でも、会費をとったほうが、親には信頼される、という捉え方もあるわけですが、要するに儲けを計算して聖書の言葉を語ろうとしているのではない、ということです。
 
福音はCMの分を回収しようなどという計算によって告げ知らされているものではありませんが、時折、若い世代をそのような効率の対象であるかのように考える様子が聞こえたりします。あるいは知らず識らずのうちに自分がそのような思考をしていることに気づくこともあります。ひとは、自分が道具にされているということは敏感に分かるのが普通です。利用されていることに騙されることもよくありますが、教会が若者を誘うときに、将来の教会を支えるために、とか、活動する働き手が必要だから、とかいう「狙い」が渦巻いていると、当然彼らはそれを感じます。冗談か本気か、君の働きに期待しているよ、などと若い人に声をかけると、最初は言われたほうもうれしいかもしれませんが、次第にその意味が分かってきて、押しつぶされていくのを避けるために、その教会を離れる、そうしたことが、これまでどれほど繰り返されてきたことでしょう。
 
社会のしくみを知らない中学生も、そのうち経験を重ねて、世の中が分かっていきます。最初はタブラ・ラサ的に心が白紙のような若い人も、世の中のことが理解できていくのが当然で、いまの大人も、そうしてきたのです。けれども何歳になろうが、自分が大切にされること、理解しようと努めてもらえること、それはうれしいものです。なにより教会では、祈られていることが、どんなに支えになるでしょうか。
 
カントは、人を利用するのではなく、人格として認めることこそ尊いことなのだとはっきり告げました。その人がひとりの人として、ただそれだけで尊重され、大切に扱われる。そこから、互いに信頼する関係も産まれる。こうしたつながりが、いまの世で比較的生まれやすいのが、教会というところであるはずです。キリストが命に替えて、買い取った一人ひとりなのです。教会生活に慣れて、いつの間にかその基本が塗り替えられることのないように、目を覚ましていたいものです。
 
 
【追伸】
中三の公民分野の授業では、国際関係と平和の実現についての項目を先週話しました。核兵器の使用を抑える条約について話すときに、核抑止力についても触れなければなりません。私は考えを押しつけません。ただ、信頼関係がないところに理想の約束は果たせないという現実を伝えます。そしてこれからの時代は君たちが考えて実現していゆくのだということを伝えます。折しも今日24日、ローマ教皇が長崎と広島で、その関心深い核兵器についてのメッセージを含む話をします。核抑止力を否定できなかったこれまでの教皇と異なり、はっきりとそれを否定する勇気。長崎には特別な思いを懐くという教皇フランシスコのメッセージは、果たしてカトリック信者に向けられてだけのことだったのでしょうか。思えば、その長崎でのメッセージの最後に挙げられた、フランシスコの平和の祈り。教皇名に付された名前のその人物がどんな人であったか、またその祈りが何を祈っているか、プロテスタントは余りに無関心であるのではないでしょうか。少なくともプロテスタント教会で、フランシスコの祈りについては殆ど聞きません。もったいないことです。互いに批判し合うことに熱心なプロテスタント各教派の人々と、常にこの平和の祈りに立ち戻るカトリック教会の人々と、果たしてどちらが聖書に忠実であるのか、もちろん単純に言うつもりはありませんが、少しは省みてもよいのではないでしょうか。



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