いい夫婦、そこからのとりとめもない話

2019年11月22日

11月22日は「いい夫婦」の日。この日が結婚記念日だという人が、身近にいるのではないでしょうか。え、ご自身がそうだとか? このような語呂合わせは日本語によるのでしょうか。でも数字の並びというのは面白いもので、確かに何か考えたくなるものてず。
 
そのようにして、一年中、なんとかの日というのがあり、日付の数字を語呂合わせであてはめたものが少なくありません。日本語だと、ひとつの数字の読み方がいくつもありますが、「二」でも、に・ふ・ふた・じ・つ(英語)など、いろいろな読みのために使えます。昔ポケベルでは、この数字の並びで文のような意味を伝えるという芸当が行われていました。
 
π(円周率)は 3.14159265358979323846... を覚えるのに、身一つ世一つ生くに無意味違約無く身文や読む、などというのがあるそうですが、5を五十嵐の「い」と読ませると、1と混同しないようにしないといけなくなりそうです。3.141592653589793238462643383279502884197...を「産医師異国に向う産後厄無く産婦御社に虫散々闇に鳴く後礼には早よ行くな」と覚えるのもあるそうです。無意味な数字の羅列を、何かしら意味あるものとして覚えるのは、よく歴史の年号では使いますが、円周率ともなるとその不自然な文を覚えるのも一苦労のようです。
 
これが英語だと、その単語の文字数を当てはめるという方式になり、「May I have a large container of coffee.」に始まり、「Poe, E. : Near A Raven Midnights so dreary, tired and weary. Silently pondering volumes extolling all by-now obsolete lore. During my rather long nap - the weirdest tap! An ominous vibrating sound disturbing my chamber's antedoor. "This", I whispered quietly, "I ignore".Perfectly, the intellect remembers: the ghostly fires, a glittering ember. Inflamed by lightning's outbursts, windows cast penumbras upon this floor. Sorrowful, as one mistreated, unhappy thoughts I heeded; that inimitable lesson in elegance - Lenore - Is delighting, exciting ... nevermore.」あたりになると、殆ど役者になれるのではないかと思われるほどで、これでも80桁なのだそうです。もっとすごいのがありますから、関心がおありでしたら、このサイトを訪ねてみてください。
 
円周率だと、日本語でも、そのまま数字でリズムよく覚えるほうが頭から離れないかもしれず、私は小学生のときに60くらいその数字の読みそのままで覚えて、それ以来その程度ですが忘れることはありません。同僚だったある数学の先生は、数千覚えているといいますし、何万と覚えている人も世の中にはいます。そのときは、一定のストーリーを思い浮かべてそこにあてはめていくのだそうですが、ただの口調でなく、何らかのイメージが記憶を助けるというのは確かなようです。
 
しかしなお、人間は記憶違いというものもします。覚えている当人が勘違いをしているのですから、手に負えません。これを脳のバグだとして扱う本がありました。近年脳科学はかなり進み、ニューロンの「発火」のしくみから、記憶や判断の誤りの理由をそこに探る営みなど、次第に明らかになってくるものがあります。まだまだ分からないことが多いのですが、いまはこの脳の研究が、かなり面白いような気がします。
 
人間の脳は、優れた部分もあれば、失敗しがちな部分もある。絶対にそうだ、と思い込んでいたのに、どうしても違うという事実を突きつけられて、おかしいなぁと思うことも、年齢を重ねればそれだけ多くなるのでしょうし、それを受け容れられなかったら、「頑固○○○」と呼ばれるのでしょうか。誰にも証明できないことであれば、たとえば自分の過去の思い出を美化していく、ということもありそうです。
 
そう、どうしても人間は自分を正しいとしか思えませんから、記憶自体、自分を正当化するように変化させていくことすらあります。犯罪の容疑者が自分はやっていないというのも、必ずしも虚偽をはたらいているだけではなくて、本当にそのように思い込んでいるという場合もけっこうあるのではないかと思います。認知に問題が起こると、とくにそれは顕著だと言えないでしょうか。
 
気になるのは、子どもたち。いまやっているのをこちらが見ていたのに、見られていたという自覚のない子は、それを「やっていない」と言い張ります。いわゆる「しらばっくれる」というやつですが、これが度々起こると、本当に自分がやっていないとしか考えていないのではないか、と疑うようにもなります。あるいは、怒られるのが嫌なので防衛本能でそうやっているというのか、自分に思い込ませているのか、よく分からないのですが、しかし気になることは、このよい子たちには「失敗が許されない」状況にある、という点です。とにかく親にいい顔を見せたい、親からは怒られたくない、とするあまり、ノートに×をつけたがらない子もしばしばなくらい、あらゆる失敗が自分にはありえないものとして捉えており、そのために時に失敗したとき自分の意識や記憶の中に、その失敗が全く入ってこないようにしぇっとアウトしているかのようにさえ見えるとがあります。このあたり、心理学者は解明しているのかもしれませんが、ひとつ間違うと非常に怖い心的状態ではないかと案じています。
 
よい子でいたい、失敗は自分にはない(人気ドラマの発想がこんなところにあるのかどうか私は知らないけれども)、そんな思い込みをしなければならないほどに、親などの期待が圧迫し、病理的なほどに、自分には失敗はないものと思い込んでいるかもしれないとき、そこに「罪」という言葉は本能的にシャットアウトされてしまうと同時に、本当に自分の悪を知ったときに、絶望しかないのではないかという危惧をも私は感じています。
 
いま子どもたちという限定で話をしていますが、果たしてそれは子どもたちだけの問題なのか。むしろいまの大人たちがそうであるから、子どもたちもそうなっているだけではないのか、と問うと、複雑な気持ちになります。教会が「罪」を告げても、すべてが他人事であるからです。SNS関係を見ていても、実はこのことはかなり思い当たります。クリスチャンと称するユーザーが、自己本位で自分中心主義でしかないありさまを見かけることは、残念ながらちっとも珍しくなくなりました。
 
明治期、キリスト教は社会に大きな影響を与えました。日本思想のかなりの部分で、キリスト教や聖書が関わり、罪という問題が大きな力を及ぼしていました。それは戦後のブームのときにも恐らくそうだったと思われます。戦後は心ある人は、罪の問題と否応なく向き合わされていたものだと思います。
 
あるいは、いま教会で自分はクリスチャンになったとして喜んでいる人たちの中にも、「罪」というゲートを潜ることなしに、なんとなく神は自分を大切にしてくれて助けてくれて、愛してくれている、自分はそのままでいいと言われたんだ、と、単なるスピリチュアルな思想のひとつのような形で、洗礼を受けた人も、いるかもしれません。それもひとつの今風のスタイルなのでしょうか。いや、それでは聖書に向き合えないでしょう。聖書とは関係のないクリスチャンなるグループが、次第に大きくなっていく可能性すら否定できません。罪とは他人のことで、自分の罪とは何かを体験せず、へたをすると自分には罪がないとすら思いこんでいる信徒が大部分、という時代が来ないとも限りません。
 
キリスト教は、そのようなソフトな教えである方が、いまの時代には合っているのかもしれません。そして「罪」などと言われるのが嫌だと思うような人が増えているのかもしれません。昔は信じない日本人の代表的な反対意見がそれでした。自分は罪人などではない、と。
 
こうなると、もうひとつ、訳語の問題が絡んできます。果たして「罪」という日本語が、聖書の思想を表すのに相応しかったのかどうか。これは、「神」という語についてはよく言われます。日本語の元来の「神」とは違うのではないか、というのです。もちろん、それは中国語に由来するのですから、さらに問題は複雑になります。もはやキリスト教独自の用語となった「神」のように、キリスト教の特定の文脈や背景によって初めて有する特殊な意味での「罪」というゲートを潜っていかなければならないとでもいうのでしょうか。
 
言葉は難しい問題です。私たちは、11月22日に、「いい夫婦」だね、と笑い合っているくらいが、幸せなのかもしれません。



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