さて、クリスマスですが……

2019年11月20日

豆腐を買うときはザルを、おでんには鍋を、それぞれ持参した時代もあった。古新聞もりっぱな包装紙だったっけ。少しの不便や手間を受け入れて、プラごみや汚染が減る。そんな好循環を目指したいものだ。日本の施策は遅れ気味と聞く。(2019年11月17日・日本経済新聞・春秋)
 
連続テレビ小説「おしん」で、セルフかご方式のスーパーマーケットタイプの販売を始めたおしんは、そんな売り方で客が買うはずがない、と周囲に轟々の非難を受けていました。しかしいまそんなことを言う人はいません。それが当たり前になったからです。むしろ、それしか知らないという人もいるほどで、対面販売の店は苦手だという大人も少なくありません。
 
人間、最初は馴染めなかったり、不安だったりして、新しい方式には手を出すのを渋るものですが、しだいにそれが普通だと思えるようになると、以前の習慣も日常も、すっかり忘れてしまうこともあります。そして歴史という大きなスパンの中で、人間はそれを果てしなくやってきました。いくら歴史を学んだとしても、そうですし、その歴史自体を都合よく書き換えたり解釈したりすることもしばしばです。
 
初めて教会というところに足を踏み入れたのは、聖書の言葉に頭を殴られて立ち上がれない中で、もがいてすがるように求めたときのことでした。下宿に近いところを探しました。インターネットのない時代ですから、どうやって探したのかも覚えていません。人生最大の勇気を振り絞って教会のドアの中に足を踏み入れたその日、礼拝はなんと子どもたちのクリスマス劇だけでした。クリスマス礼拝の前の週だったのだと思います。しかしその後、そんなプログラムの教会には出会ったことがありませんから、なんとも不思議な初体験でした。
 
心洗われるような思いがしたのだけは覚えています。「心洗われる」などという表現は、いまでも使われるのでしょうか。とにかくそんな印象でした。それで救われたのではありませんでしたが、なんとも温和な気持ちになれたのは確かです。私にとり、クリスマスは特別でした。
 
他方、商戦としてのクリスマスも衰えるところを知らず、近年はハロウィーンが終わるとクリスマス商品が店に並ぶ……と思っていたら、今年はハロウィーンの売れ行きが悪いとなると、すでに一緒にクリスマス関係のグッズがもう並んでいるのをあちこちで見ました。
 
クリスマスは、プレゼントという動機があるために、商売の恰好の題材となりえます。すっかり日本人の年中行事としても当然のものとなりました。「礼拝」などとは言わず、「クリスマス」という単語が、それに適していたというのもあるかもしれません。英語をそのまま教会で用いてどうかしらと思うのは、「イースター」もそうで、こちらは異教の臭いのする語であり、聖書にはなんの関係もない語がどうして、という気もしますから、「クリスマス」はまだ「クリスト」が入っているだけましなのでしょうか。「キリスト」の英語のスペリングくらいは皆さんに周知のものとなったことでしょう。
 
では教会のクリスマスは問題がないのか。クリスマス礼拝と銘打って、世間の関心を誘うのは当然ですが、いざクリスマス礼拝とその前の一定期間(アドベント)には、ほぼお決まりの聖書箇所が開かれるばかりで、クリスマス物語を毎年説明して、変わり映えのない結末を繰り返して幕を閉じるというのが通例ではないでしょうか。会衆も、(ふだんからそうなのかもしれませんが)苦行のようにメッセージの間静かにじっとしておいて、礼拝が終わればそそくさとごちそうの仕度、それも大抵は女性ばかりが動くという旧態依然とした中で、舌鼓を打ち、プレゼント交換をし、なんとも騒がしい祝会をして大笑いをする。どうでしょうか。思い当たるふしはありませんか。これで、世間のパーティーとどこが違うのか、と言われても仕方がないありさまではないでしょうか。まるで、教会の忘年会のように。そしてクリスマスの挨拶よりも、元日(か最初の日曜日)の「あけましておめでとうございます」が非常に熱心に交わされ、クリスマスカードのやりとりはなくても年賀状を出し合う、というあたりになると、もっと思い当たるのではないでしょうか。
 
もちろん、厳粛な礼拝の教会もありますから、決して全体がそうだと揶揄しているわけではありません。とくにキャンドル・サービスはどちらかと言うとビシッと締まった会となる傾向があります。えてして、聖書朗読と静かな讃美歌だけというプログラムがそうさせているようなもの、とも言えるかもしれません。
 
このクリスマスのイベントは12月の各週続き、その出し物の練習に信徒は追われ、ただでさえ日常の生活や仕事で忙しい中を、貴重な休日に加えて平日もまた、教会の催しの準備のために走り回る、というようなことが、ないでしょうか。
 
そこから距離を置いて見てはいけないでしょうか。Facebookで相手と「少し距離を置く」という項目を選択することが可能ですが、教会の殺人的なクリスマス行事から、少し距離を置くのです。もちろん、やりたい人はやればよいのです。初めて教会で迎えるクリスマスに夢中で参加して楽しみたい場合もあるでしょうし、何年経ってもそのようにクリスマスを迎えたい人もいるでしょう。それぞれが喜ばしくできることをとやかくいうほど無粋ではありません。ただ、どうしても加わってくれとか、どうして一緒にできないのかとかいうような、強制めいた雰囲気を当たり前のものにしないがよいのではないか、ということです。多様なクリスマスの受けとめ方や、それぞれの事情、好みなども加味して、自由に取り組めるようにすることはできないものでしょうか。ただでさえスタッフが不足している中で、行事の機会も内容もやたら膨れあがっている中で、断りづらいムードをこしらえているとすれば、教会のクリスマスは、もう死んだようなものだとも言えるでしょう。ひとを生かす福音が、ひとを殺すように働いているとなると、これは神の業ではない、と判断します。
 
妙にすれてきたベテランの、ひねくれたほざきでした。この年末は、書棚からクリスマスのための説教集を取り出して、再読してみようかと準備しているところです。
 
なお、冒頭の引用から環境問題の話が始まるかと期待した方、すみません。ここではその気はありませんでした。その問題はまたいつかお話しできることかと思います。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります