【メッセージ】どのように
2019年11月17日
(マラキ2:17-3:12)
立ち帰れ、わたしに。
そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると
万軍の主は言われる。
しかし、あなたたちは言う
どのように立ち帰ればよいのか、と。(マラキ3:7)
マラキ書は、旧約聖書の最後の預言書です。旧約と新約を結ぶ橋渡しだとも言われます。事実、その終わりがけのところで、次のような有名なフレーズを含む句が見えます。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」(マラキ3:1) これは、イエスが来るのに先立つ、バプテスマのヨハネの登場を預言した箇所として、新約聖書に、マタイ11:10,マルコ1:2,ルカ7:27に、「使者を遣わ」すとして挙げられてきます。
マラキ書は、終末を描いていると考えられています。ペルシアの支配下におけるイスラエルの国の情況を嘆き、異教信仰が紛れ宗教的に乱れていたありさまを斬るような勢いで、強烈な預言が投げかけられます。その「裁き」の仕打ちをぶつけると共に、そこからの「回復」という「希望」が与えられることも、押さえておく必要があります。それを踏まえて、この旧約聖書のラストシーンを味わうことにしましょう。
どうしても新約聖書の徒としての私たちは、いま挙げた、バプテスマのヨハネの預言に注目しがちです。それはそれでよいのです。その先行者があって、神の裁きがくるという予告です。但し、いきなりの裁きではなく、イエス・キリストという赦しの使者が訪れたことが、マラキ書のイメージとは少しばかり違うこととなりました。
そこでマラキ書は、悔い改めを求めます。マラキから出てくる言葉は、神が、まるでぶつぶつと独り言を言っているような口調の預言となってしばらく続きます。主がこのようにする、そのときこのようになる。そして先祖の時代から、神の掟を離れていたという事実を突きつけます。このように、ある意味でただ神の事実を並べられても、人間には厳しい裁きでしかありません。これに対して人間がどのようにレスポンスしてよいか分かりません。しかしその先祖の有様をぶつけたとき、主は次のようにイスラエルの民、特にその指導者たちに向けて呼びかけます。
立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると/万軍の主は言われる。(マラキ3:7)
「立ち帰れ」という訳語は、旧約聖書特有の言葉で、基本的に預言者の書で用いられます。イザヤ書には二度ですが、エレミヤ書には六度登場します。その他、エゼキエル書やホセア書、ヨエル書とゼカリヤ書に二度ずつ出てきます。エレミヤにおいては、「背信の子らよ、立ち帰れ」のような呼びかけ方をすることが多く、エゼキエル書では印象的な箇所で、二度繰り返す言い方がなされています。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル33:11)
新約聖書だと、「悔い改めよ」という命令が、これに匹敵するものとして理解できると思われます。それはただ反省するというだけのものではありません。生きていた方向を改め、向かうべき神を見つめ、歩き始めるよう促すのです。
ここで主は、主の方からも「わたしもあなたたちに立ち帰る」と言っています。原語も同じ語で、リターンすることを意味します。ですから、人が神に立ち帰るというのは悔い改めると重ねて理解してもよいのですが、神が人に立ち帰るというのは、悔い改めることとは違うでしょう。それは向きを変えるということで、従わないイスラエルの民に背を向けていた神が、背中に置いてきてしまったようなその民を、再び顧みて害虫や飢饉を遠ざけることを言っていると思われます。これがイスラエルの民にとっては、背信の歴史にきっぱりと訣別し、新たな前進を始めることです。それは、もう一度やり直すことができるということです。人はいつでも、どこからでも、やり直すことができる。これはありそうで、なかなか聞かされなかった福音です。イエス・キリストの十字架の許に来て主の姿を見上げる者は、たとえ今がどうであっても、今までがどんなふうであったとしても、いまここからやり直すことが認められるというのです。
神は「立ち帰れ」と呼びかけました。これに対して民が問う言葉を、主が先取りして説明しています。こんなことをすでに言っていることを知っているのかもしれないし、事実マラキがこのような呟きを耳にしていたのかもしれません。
立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると/万軍の主は言われる。しかし、あなたたちは言う/どのように立ち帰ればよいのか、と。(マラキ3:7)
そうです。「立ち帰れ」という命令は、非常に抽象的です。具体的に、何をどうしたら、立ち帰ることになるのでしょうか。神の支配から離れたような民には、とうていその具体的な方法は思いつかないかもしれませんが、マラキはこの言葉の後に、献納物についての指摘を行います。ここは教会にとり時折開いて説き明かす有名な個所です。人が神を、献げ物という領域で欺き偽っているというのです。「十分の一の献げ物と/献納物」(マラキ3:9)において、偽っているのだと。それでここでは、具体的にはこの献納物において、主に立ち帰ることを実行できるのだ、とするのです。
それが分からない民が、「どのように立ち帰ればよいのか」と尋ねるのだ、と神が言ったように、マラキは記しています。ところでそもそもこの「マラキ」という名は、「神の使者」を意味するような響きをもつ語であり、本当に個人名としてマラキと呼ばれているのかどうかも分からないとする研究があります。エリヤやバプテスマのヨハネと関連づけることがあるように、神の裁きにぎりぎりのところで警告を与える役割を担って登場していますから、救われるためには「どのように立ち帰ればよいのか」は一層切実な問題です。
さあ、長くテキストを追いかけてきて、退屈だったかもしれませんが、ここで少し気分を換えましょう。ここで「立ち帰れ」という神の呼びかけに対して、民は「どのように」と問い返しました。これはいま素直に読み、方法を尋ねたものとして理解しました。けれども、読み方はそれだけでしょうか。私たちは普段、このような問い返しをするとき、本当に方法を尋ねているでしょうか。
「俺とまた一緒にやり直してくれ」「どのようにやり直せばいいんですか。無理です」
「頑張ればきっと大学に合格するよ」「どのようにすれば私のような生徒があの大学に入れるというのですか」
否定的な会話となって暗くなりますが、「じゃあどうすればいいんですか、そんな方法があるならとっくにやってますよ。できないものはできないんです」などと言い返したいとき、しかしただ言い返すだけではなくて、問うた本人にもう一度自分の胸に手を当ててよく考えてごらんなさいよ、無理ですよ、と言いたいとき、私たちは、「どのように」と問うことをします。あなたの要求通りに従うわけにはいきません、という意思表示として、問い返す形で「どのように」という訊き方をする場合があると思うのです。
神に「立ち帰れ」と言われたとき、それに従えないが故に人間が「じゃあどんなふうに立ち帰ればいいか聞かせてもらおうじゃないか、ありはしないんだよ」とふてくされた顔をして抵抗している様子を、意地悪く想像してみたいと思いました。どうせできやしない、という諦めの態度として、「どのように」と問い返したのだとすれば、人間はどこまでも神に従わないものだと残念な気持ちになります。でも、事実そういうところがないでしょうか。私たちは、聖書を神の言葉として受け止めて信じているつもりですが、その命令の言葉を聞いても、そんなことはできない、という姿勢を貫いていることがありませんか。
これはまんざら無駄な想像ではないかもしれません。というのは、今日取り上げた箇所のすぐ次で、このように書かれてあるからです。
あなたたちは、わたしに/ひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言う/どんなことをあなたに言いましたか、と。(マラキ3:13)
自分たちは神にひどいことを言っている自覚がないのです。人間はどこまでも、自分のしていることが分からない者だと思います。それに気づいていないのです。神が人を知るほどには、人は自分という人間すら知ることはできません。自信満々の自分が次の瞬間へし折れてしまったり、自分がするはずのないと思っていたことをいつの間にかしていたり、自分が他人を傷つけていたことを後になってようやく気づかされたりすることもあります。気づかないままに生活していることは、もっと数多いことでしょう。
「立ち帰れ」と言われて「立ち帰る方法を教えてください」と素直に応じるようなお利口さんの返答をしているとは思えません。自分がこの神に従う気持ちがあるならば、とっくの昔に従い通していたはずです。散々言われ続けてようやく神の言葉に耳を傾けたものの、それにすんなり応じたのではないと理解したほうが自然ではないでしょうか。
さあ、人間の性について考えてくると、心が痛くなりますが、それでは悲観的な結末にならないように、希望の歩み出しを致しましょう。「どのように」と反抗してみたとしても、それに対して神は誠実に、つまり信頼の心で、私たちに説明してくれました。
十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。(マラキ3:10)
これは、この献げ物さえすれば万事オーケーだと言っている、そんなふうに考えたくはないと思いました。たとえば、野球チームのコーチと選手との間にこのような会話があったとします。「もっと速い球を投げたいんです」「じゃあ、走り込みをするんだ。足腰を鍛えることが必要だ」「分かりました」こうしてその投手は毎日ひたすら走り込みました。さて、これで良かったでしょうか。コーチは、走り込みだけをすればよいとは言っていません。走り込みをした上で、いつものように投球練習をするはずではなかったでしょうか。「十分の一の献げ物」さえあれば十分という意味に受け取るのは、まるで小さな子どものようです。いえ、小さな子どもでも、他のことに加えてなのだということは通常理解するでしょう。
神は「立ち帰れ」という命令を下しましたが、その時に「十分の一の献げ物」を提案しました。それは一つの入口でした。「どのように」と、考えようにあっては立ち帰ることを渋った人間の返答を予想した上で、預言者マラキは、神の猛威下一つの入口を示したということです。「どのように」という言い訳に対して、「このように」と具体的な一つの道を見せました。そうせずに、もしも抽象的にまた何かを命じたとしたら、きっとまた「どのように」という逃げの問いをぶつけてくるのが、人間だからです。しかし神の示すのは誰の目にも分かりやすい方法であり、誤解の余地すら残さないほどにはっきりした方法でした。これで、もう「どのように」という逃れ道を考えさせなくしたのです。
但し、それは一例に過ぎません。それさえすればよいのではなく、それを発端として、その道を進んでいけば、なすべきことや、出会う事態が多く待ち受けていることになります。神はいつも、そうした道を現実に用意しているのだと思います。その道を進めば、そこに新しい世界が拡がって見えてきます。それが、神の国です。つまり神が支配する世界です。「神の国は見える形では来ない」(ルカ17:20)のであり、「神の国から遠くない」(マルコ12:34)のです。マラキは、献げ物をイスラエルの民に突きつけましたが、私たちにはまたそれぞれに、何かしら道を見せてくれるでしょう。今日聖書の言葉のあるものが心に響いた、そうしたらそれが、あなたにとり今日神の国に入る入口です。どうしても心に引っかかって離れないもの、そこがチャンスです。そして、最後にどうしても知っておかなければならないことをお話しします。イエスの言葉です。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)とあるように、イエスこそその道であり、さらに言えば、あなたを愛して愛して愛し抜いた、十字架のイエス・キリストにほかなりません。マラキが橋渡しをしてつないだ新約聖書とは、そのことを伝えたかった言葉の集まりであるのです。