聖書というテクストと信仰
2019年11月12日
聖書をひとつのテクストとして見るとします。それは文字で書かれています。文字は現象を描こうにも、あまりにも多くのものを捨象します。しかも、人間の思考作業により選ばれた言葉というメディアで記されますから、その思考した主体に基づいて綴られています。つまり、その文章の記者次第で記録された文書だということになります。
こうしてひとつの形となったテクストですが、それを今度は受容する主体が現れます。テクストを読む人です。この人は、記者の意図に基づいて記された文字を読み、その言葉の意味については一定の共有感覚を以てこのテクストを受け取ることになりますが、しかし記者とは違う人格ですから、読者は読者としてのその主体の理解と感覚によってそのテクストを受け取ります。
そこには誤解もありましょうしが、同じ文字から、記者の思いとは別のものを考えていくということから逃れることは難しくなります。なにしろ別々の神経系統をもち脳の構造をもっているのですから、全く違う回路をその刺激がつなぎ、走ることを否むことはできないのです。
こうして、現象から記者によりテクストになるときのフィルターがあり、そのテクストから読者が何を受け止めるのかというときのフィルターもありますから、まるで伝言ゲームのように、最初の現象とは違うものが、読者によってイメージされることは、当然すぎることとなります。
当たり前のことをくどくどと申し上げましたが、これが「聖書」の場合にどうなるか、を適切に弁えていないことから、どれほどの人命が失われているか、を深刻に考えたいのです。
私たちは聖書というテクストに向き合っています。誤解を招きやすい語ですが、聖書を「認識」しています。ところが聖書は私たちが認識するより先に「存在」しています。人が「存在」ならしめた書です。そこには謎めいた文字情報が詰まっています。私たちはこのテクストから、テクストが生成した時の背後について考えます。問題はこれが、人間たる著者、聖書のライターたちによってできたものだというよりも、その人間の背後に神の意志を感じるという点です。この神という点を外して、謎解きをする途もあるわけで、これには一般の人々も賛同することができ、歴史の書や文化の書であるとして、このテクストに関心をもち、その背景について謎解きを楽しみます。しかし、背後に神を想定する者は、つまり信徒と呼んでもほぼ指し誓えないでしょうが、信徒は、このテクストがいまここにあるというその成り立ちの中に、神という存在を感じ、想定します。この働きを、あるいはその神そのものを、「霊」と呼ぶのが通例です。
私たちは、テクストが歴史的事実をそのまま描いているかどうか、をしばしば問題にします。聖書というテクストのライターが、私たちがいま史実として扱うような事柄をそこに記しているのかどうか、を議論します。ライターたちにとり、記したことは「事実」であるはずです。私たちのうちある人々が悪口を言うように、それが想像だけの産物であり空想物語に過ぎない、という言い方は、当時のライターたちにとって不本意であろうかと思います。それは彼らにとって、なんらかの「事実」であったのだろうと推察します。私たちのいまの常識からして言える「史実」という言葉と、彼らの考える「事実」とが同一のものであるという保証はもちろんありません。だからいまの常識からして言えるような「史実」ではないのだ、という言い方も甘んじなければならないだろうと思います。しかし、だからそれは虚構に過ぎず嘘なのだ、と断ずるのも早計であろうかと思うのです。
たとえば私が、ある歴史小説を読んで、その主人公に影響を受けて勇気をもらい、何かをなしたとします。しかしその歴史小説はどうやら史実どおりではなく、脚色がたくさんしてありました。このとき、その小説は史実でなく虚構だから、私の感動は無意味なのでしょうか。そうだとも言えますが、私にとりその物語がひとつの事実、あるいは真実として伝わったとき、歴史上のその人物から影響を受けたとすることは、科学的観点から偽りであるとしか言えないものなのでしょうか。
聖書に書かれてあることがすべて史実通りである、と考えることも可能です。しかし、その考えだけでは、非常に脆いものがあることも確かです。というのは、何かしらの歴史的な調査により、聖書に記してあることがその通りではないということが研究される可能性があるからです。というより、もうすでにそうしたことがたくさん研究されています。聖書を史実そのものだとしか言えない立場をとると、これらの研究をすべて否定するしかありません。すべてです。しかし、逆に事実についての考えのほうを引き受けるならば、歴史的な史実とは異なる記述があっても、それを真実として受け止めることができます。文字の表現に「ゆとり」や「あそび」を保ちつつ、そのテクストの背後に働く「霊」を自由に感じとり、そこに教えられている喜びを覚えながら、自分として生かされ、またそれを語り行うことで、他の人々を生かすことができるようになります。
聖書に限らず、ひとが記した書物には、背後にそうした意味での「事実」があると考えます。それが聖書の場合には、それをひとの力に制限されただけの力ではなく、ひとを超えた大きな力に基づくものだというように考えるだけのスケールがありうると言えるでしょう。ありうるとはいっても、それを個人として自分が選び取るのかどうか、それは各自それぞれです。私はそれを選び取らざるをえない情況に追い詰められ、それに従った。私が探して好んで選んだなどというものではありませんでした。どうしようもない自分の悪に思い詰めたとき、その悪を悪として徹底的に潰したのが聖書の中から語りかけてかた存在であったし、それが神であったし、その神の差し伸べた救いの手が、血にまみれた十字架のイエスでした。もはや聖書はただの文字の列、ただのテクストではなくなりました。いのちの書と呼ぶに相応しいものとなったのでした。