【聖書の基本】裁く
2019年11月10日
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。(マタイ7:1)
テレビのワイドショーや週刊誌では、今日も誰かの悪口を言っています。芸能人の誰それが何をした、けしからん。政治家が失言した、けしからん。それは、とことんその人を断罪しているとまでは言えないかもしれませんが、その人を悪と決めつけて溜飲を下げている視聴者の姿、あるいはスタジオのコメンテーターや記者の姿が目に浮かぶようです。
どうして、このように誰かを悪に定めたくなるのでしょう。それは、自分が正しいことをアピールしたいからです。あるいは、自分が正義の味方だと自分に言い聞かせたいからです。そしてさらに、これを宗教的に捉えるならば、もう少し深いところまで、人間の心を探ることができるような気がします。私たち聖書を読む者としては、これをよく「裁く」という言葉で用いているわけです。
では、そもそも「裁く」とは何でしょうか。どうしても「裁判」という語が頭にちらつきます。裁判で判決を下す、というイメージが強いのではないでしょうか。その意味もありますが、日本語としての意味を調べると、「善悪・理非の判断をする、明らかにする」という説明が第一に出てきます。もちろん、その他仕事をさばくとか、裾をさばく、包丁でさばくとかいう意味も派生しますが、元来は、はっきりと是非の結論をつけるところに本質があると言えるでしょう。
聖書ではどうでしょうか。何を裁くのかという問題もありますが、決定的なのは、誰が裁くかです。聖書は一貫して、裁くのは神だというスタンスを崩しません。
アブラハムがソドムのために執り成しをする場面で言います。「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」(創世記18:25)
エレミヤがユダの悪を見かねて主に訴えます。「万軍の主よ/人のはらわたと心を究め/正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。わたしは訴えをあなたに打ち明け/お任せします。」(エレミヤ11:20)
この「裁く」という言葉から派生して「さばきびと」という語が使われるのが「士師記」です。「士師」というのがその「さばきびと」という意味なのです。これは、まだ王国としての統一をなしていなかった時代のイスラエルが、その多くの民族を緩い共同体の中にまとめられているとき、政治的にまた軍事的に指導するリーダーを指しています。しかしこの士師記の時代は必ずしも聖書記者にとって好意的には見られておらず、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」(21:25)のような突き放した言い方が何度かなされています。
もちろん、最後の審判と言われる、世の終わりについても、ひとつの「裁き」ですし、究極的な「裁き」という理解が必要となるでしょう。神の最終判断ですから、そこに人の意見が紛れ込むことを弾き出そうとするのが、イスラエルの徹底した神中心主義であると考えられるでしょう。
だから、ひとが裁いてはいけないわけです。ひとが裁くことがまかり通ると、ひとが神になる、少なくとも神の役割を果たすということになります。ひとが神を創ったのであれば、ひとの考え次第で神の判断が曲がることでしょうが、イスラエルの思想はその方向で考えることを拒否します。私が神に成り変わり、相手の運命を決める、その発想をシャットアウトします。それだからまた、「殺してはならない」のです。殺すということは、相手の運命を自分が最終的に定めるようなことです。自分が相手にとり神になるのです。だから、かどうか知れませんが、この「殺すな」は同胞の中においての倫理となっており、カナンの原住民に対しては適用されず、そこへは徹底的に滅ぼせという、目を瞑りたくなるような仕打ちが旧約聖書に盛んに描かれています。これは神の代わりに滅ぼしている、という理解をしなければ、読んでいられないところです。少なくとも私たちが、それと同じことをするわけにはいきません。キリストは、裁いてはならないことを私たちに命じました。却って、私たちに与えられた掟は「愛し合いなさい」です。新約の徒は、ここを根底に踏まえて立ち、また歩かなければなりません。
なお、「裁く」の反対語として私たちは「赦す」を思い浮かべるかもしれませんが、「赦す」の反対語はおそらく「罰する・復讐する」のほうだと思われます。赦さないということがそのまま裁くということと直結しない可能性を覚えるからです。赦さないというのは、むしろ仕返しをすることにあたると理解してみようかと思います。では「裁く」の対義語は何でしょうか。裁かないこととできるだけ重なる概念は何かということです。分かりません。私はそこに「愛する」という考え方を提言してみたいと思います。
「敵を愛せよ」という難題が、クリスチャン全員に突きつけられています。けれども、できませんと言う前に、そもそもこの「敵を愛せよ」とはどういうことを命じられているのか、自分の思い込みからできるだけ離れてみようと思うのです。つまり、「敵を裁かないようにせよ」と考えると、少し楽にならないだろうか、という気がします。私たちは敵を、好きになることはできないでしょう。また、敵を許すことも簡単にはできないでしょう。ただ、敵の運命を自分が決定しようという思いからは、離れることができるのではないかと思うのです。敵を好きにはなれない、許すなどと言いながらもとことん許せない自分を見出して嫌になる。このような穴から逃れるひとつの道が、「敵を裁かないようにせよ」にあるのではないかと考えてみるのです。あいつは嫌いだし、許す気にもなれない。しかしあいつの運命は、神が決めることだろうから、自分はその判断を下してしまわないようにしておく。ここまでなら、まだできるのではないかと考えるのです。
私が誰かを裁くとき、私は自分で自分を正義と定めていることになりますが、自らが正義で相手が悪である、戦争はこの思いに支配されたところから始まります。また、小さな戦争とも言える、身近な次元での他人との争いや諍いも、ここから始まります。自分がこらしめてやろう、そしてこれは天誅である、などと。しかし、新約聖書の神は、敵の運命を自分が決めてやる、といきり立つことを咎めているように見受けられます。それは自分が神になることでもあるのだから。そのように自分が神になってしまうと、逆に神はその者を裁かざるをえなくなります。私たちは、もう一度この言葉を深くかみしめてみたいと思います。
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。(マタイ7:1)