【メッセージ】あなたの教会生活
2019年11月3日
(ゼカリヤ3:1-10)
ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた。(ゼカリヤ3:3)
ざっくりいくと、バビロンに捕囚として連行されたイスラエルの民が、バビロンを滅ぼしたペルシア王キュロスにより、イスラエルの地に帰還を許された、その辺りの出来事です。恐らくその少し後になり実際に帰還し、王家の地を引くゼルバベルと、大祭司ヨシュアとが協力して、なんとか神殿を再建しようと努めます。以前の神殿よりは小規模となりましたが、様々な障害を乗り越えて建設が成ったときのうれし泣きが聖書に描かれています。
ゼカリヤは、このありさまを預言という形で、神から受けた幻を言葉にして遺しました。いくつかの幻を描いていますが、今回はその第四の幻から、私たちの生きる指針を受け取りたいと思います。
直接自分のせいではないことで、辛い目に遭うことが、人生にはあります。理不尽な暴力により大切なものを失う、それに憤っても、失ったものは戻りません。愛する人であったり、財産であったり、社会的地位であったり、どうしてこのようなことが、と思える体験をすることがあるということです。基本的人権などと言いながらも、それほど理想的に守られているわけではなく、私たちの不断の努力により、その理念は実現するように、つねに途上にあるというのが実情です。
イスラエルの国が大帝国により壊滅状態にされ、しかも才覚ある人々が異国に強制連行されたことは、人々の目には理不尽極まりないことだったに違いありません。しかもイスラエルには誇り高い信仰があり、天地創造の神である主を仰いでいましたから、なおさら理解できませんでした。そう、クリスチャンだから常にハッピー、というわけではないことは、皆さんご存じの通りです。イスラエルの人々は、これを神のせいにはしませんでした。通例、戦争に負けたのはその神が負けたのであり、その神への信仰が消えることを意味します。しかしイスラエルでは、神ではなく、神を信じなかった民のせいだというテーゼを掲げました。これにより、人が神をつくったのではなく、神が人をつくったというポリシーを保つことができたとも言えます。このテーゼを押し進めたのが、預言者たちでした。
ゼカリヤの見た第四の幻は、その背景の中で、少し異質な考えを提供します。ここに登場するのは、大祭司ヨシュア。帰還した民の、宗教的な指導者です。イスラエルの信仰がダメだったから捕囚の憂き目に遭った、その指導者がだらしなかった、いま帰還を許されたのは異教の王によってである、相変わらずイスラエルの大祭司などは無力だ、このような批判もありえたと思われます。ゼカリヤは、サタンがヨシュアを訴えようとしている様子を見ます。サタンとは、時に訴える者として理解されていました。これに対してイエス・キリストは弁護者と言われます。サタンは、人間が如何に罪にまみれ悪であるかを指摘し、重罰を求めますが、これをイエス・キリストが弁護して救うという図式が成り立つのです。
ゼカリヤはそのイエス・キリストという姿を意識していませんから、そのような存在を「主の御使い」と称しています。新約聖書を知る私たちは、思い切ってこれをキリストだと読み替えると、読みやすくなるかもしれません。この御使いは、サタンの働きにストップをかけます。いま裁判の被告席に立つヨシュアを、もう責め立てるな、と。もう十分にいじめられ、苦しめられてぼろぼろにされたなれの果てではないか。もう十分だ。こうして、もうサタンはヨシュアを攻撃することができないようにさせました。
このとき「ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた」と描写されています。捕囚に遭い、ぼろぼろになっていたのです。また、とても神の前に出られるようなきれいな姿ではなかったのです。教会に来る人は皆優しくて心がきれい、といった幻想が時折聞かれます。教会にいる者として私は恥ずかしく思います。敬虔なクリスチャンという決まり文句で呼ばれ、立派な人だなどと言われようものなら、そこらに穴を掘って入りたいくらいです。だからまた、教会に理想を求め過ぎると失望します。人格者が揃っていると思ったら、とんでもない人がいた、と、非難して教会を去る人がいます。いやいや、教会は罪人の集まりです。などと言うと抵抗を覚える人もいるでしょうが、教会は、自分が罪にまみれた者だということを自覚した人こそが、集まっている場所であることには違いありません。誰もがただの人間ですが、ただ、神の前に罪があると知る点で、そうでない人とは区別されようかと思います。私たちもぼろぼろになった、このヨシュア以上にひどい恰好をしていることになります。
ここで御使いは、他の使いに指示します。「彼の汚れた衣を脱がせてやりなさい」というわけで、ヨシュアは罪にまみれたぼろぼろの服を脱がされたはずです。それから御使いはヨシュアに直接このように言います。「わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい」と。罪を取り去る、如何ですか。まるでイエス・キリストです。汚れに満ちた服を脱がされたということは、罪を取り去ったということに等しいことを示しています。次に、晴れ着を着せられることを宣言します。どうやら今と同じく、結婚式など正式な祝いの席では、ちゃんとした服装をしなければならなかったようです。宴に呼ばれたのに礼服を着ていなかった者が宴席から追い出される譬え(マタイ22:12-13)がありますし、帰ってきた放蕩息子に父はまず服を準備させます(ルカ15:22)。さらに御使いはヨシュアの清いかぶり物を与え、すっかり美しい正装を実現します。頭の清さは全身の清さを意味するはずです。
さて、お気づきでしょうか。ここまで、ヨシュアは、何一つ自分から行動をしていません。もう一度見てみましょう。「脱がせてやりなさい。」「彼の汚れた衣を脱がせてやりなさい。」「この人の頭に清いかぶり物をかぶせなさい。」御使いが、仕える者を通して、ヨシュアを着飾っていく様子が見てとれます。ヨシュアは、ただ「立っていた」だけでした。
大祭司として、民の前では儀式をとりもつはずのヨシュアでしたが、主の御使いの前に立つとき、ヨシュアはなすすべなく立ちつくしています。自分から何かをしようとする必要がまるでないのです。私たちが救われるというのは、そのようなものです。自分から何かをするとか、神のためにこれこれのことをするとか、そういうことは全く必要がないということです。ヨシュアのように、私たちも汚れた服を着ています。罪に汚れた服です。自分の力で脱ごうと努力したことがあったかもしれませんが、おそらく、脱いでも脱いでもまとわりつく服であり、どうにも汚れが取れない服です。神に逆らう人間の自分本位な考え、あるいはそれを罪と呼んでもよいのですが、そうした汚れは、落ちません。人間の手による洗濯では全く落ちません。この汚れを落とすことができるのは、小羊の血だけです。十字架の上で私の罪を赦したキリストの流す血で洗うときにのみ、衣は白くなります。洗ってもらうとき、私はもはや何もなすことがありません。ただイエスを見上げます。立ちつくして、驚きつつ、感謝しつつ、十字架のキリストを見つめます。このキリストと出会うことによって、初めて救いの約束が与えられます。その約束に信頼を寄せ、契約を結んだという信仰によって、救われた喜びが与えられます。代償や条件として、何かをするというのではありません。ただ神にされるがまま。これを「恵み」といいます。ヨシュアが美しく着飾ってもらったのは、ただ恵みによってのことでした。
清くされたヨシュアでしたが、そこから御使いは、二つの段階について告げられます。「軍の主はこう言われる。もしあなたがわたしの道を歩み/わたしの務めを守るなら/あなたはわたしの家を治め/わたしの庭を守る者となる。わたしはあなたがここで仕える者らの/間に歩むことを許す。」こうしてヨシュアに対して、主の道を歩むようにと諭します。教会に来て、罪赦されたと聞いたとき、私たちは救われたと思います。うれしくなります。ダメな自分が、またやり直せると喜びます。本当にこんな自分が赦されていいのか、と最初は信じられないかもしれませんが、信じてよいのです。そして教会員として迎えられたとき、汚れてぼろぼろだった自分が、すっかり美しい服を着せられたような気持ちになります。但し、これで終わりではありません。これから教会生活をするのだ、というときに、主の教える道を歩むこと、何かしら務めを守ること、そんなことを教えられます。順序を間違ってはいけません。この道を歩み務めを守るから救われたのではありません。救われたから、この道を歩むのです。こうして、私たちは教会生活を始めます。
ヨシュアに投げかけられた言葉は、私たちの教会生活の中へと食い込んできました。「大祭司ヨシュアよ/あなたの前に座す同僚たちと共に聞け。」と命じられました。同僚たちとは誰でしょうか。祭司の仲間でしょうか。だとすればますます、私たちの周りに教会の仲間がいることが浮かび上がってきます。神は私に言葉を告げる。神と私との間の関係には、他の誰も割り込むことはありません。私と神との閉じた時空で、閉じた関係が成立しています。しかし、仲間たちと共に主の言葉を聞くように言われたのです。教会で神を礼拝するときのひとつの要は説教を聞くことです。神の言葉を聞くことであり、神の言葉が現実の出来事となっていくことを信じ、それの目撃者となることです。これを教会において、仲間と共に聞きます。まさにヨシュアが言われたとおりのことを、私たちは教会生活で最も大切なことのひとつとして営んでいるではありませんか。
続いて御使いは、「あなたたちはしるしとなるべき人々である。わたしは、今や若枝であるわが僕を来させる」と言います。私と教会の仲間を含めて、「しるし」となるのです。「しるし」はマークですが、マークというのは、もしかすると隠され気味になっているかもしれない実態を分かりやすく指し示す目印です。何を指し示すのかというと、「今や若枝であるわが僕」にほかなりません。これはキリストを、救い主を示すと新約聖書を知る者は誰しも当てはめることでしょう。教会で生きる者は、キリストの証人となるのです。ここに私を救ってくださった方がいる、この方が命の君だ、と世間の人々に証言します。ここに救いがあるよ、と指し示すこともするでしょう。私たちは、仲間と共に、ここに世を救う方がいる、と示すマークとなるのです。
この若枝なる僕については、「ここに石がある。これはわたしがヨシュアの前に差し出すものだ。この一つの石に七つの目がある。わたしはそこに碑文を刻む、と万軍の主は言われる。そして、一日のうちにこの地の罪を取り除く。」と説明がなされています。石というのは奇異に聞こえるかもしれません。七つの目などまともに聞くとオカルト的ですが、果たしてゼカリヤがどのような意図でこう表現しているのか、想像の域を出ません。ただ、「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」(ローマ9:33)と言ったり、まさに「皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」(コリント一10:4)と言ったりして、パウロはキリストを石や岩と理解していました。キリストが救いの言葉を与えたこと、罪を赦し取り除く業をなしたことなどを思い返せば、ゼカリヤの言おうとしていたことは、必ずしも奇想天外なことではないように思えてこないでしょうか。モーセのように、「あなたはその岩のそばに立ちなさい」(出エジプト33:21)と言われ、続いて「わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ」(出エジプト33:22)て守るとの声を受けることさえ、私たちがいま受けている恵みであると、私は感じられてならないのです。
最後に御使いはこう言葉を続けました。「その日には、と万軍の主は言われる。あなたたちは互いに呼びかけて/ぶどうといちじくの木陰に招き合う。」その日、それは聖書では謎めいた日時指定です。いつとは分かりません。ひとにはそれが分かりません。救い主が来る日というのがよくある説明です。キリストの再臨とか神の裁きの日とか、細かく考えていくとだんだん説明しにくくなるのですが、何かしら特異な時を示していることは間違いありません。毎日同じようなことが繰り返される、そうした時間観念とは違い、ただ一度だけの特殊な出来事、かけがえのない時を、きっと指すものです。大切な時を、教会にいる私たちは経験することでしょう。互いに呼びかけて、つまり十分なコミュニケーションをとりながら、ぶどうといちじく、つまりイスラエルの民族の象徴たる果物の名を挙げて、イスラエルの名の下に招き合うのだとしています。ゼカリヤではまさにイスラエル民族のことだったでしょうが、新約の時代にいる私たちからすれば、新しいイスラエル、つまりキリストの名のもとに救われて集まるキリストの弟子たちのことであると考えることができます。それで、ここにクリスチャン同士が繋がり合う姿を想像したいと思います。
私はある教会にいて、その教会には仲間がいる。いつも同じ顔ぶれに囲まれて、主を礼拝している。ただ、この仲間だけが神を礼拝するすべてではない。周辺地域にも、また日本全体、全世界にも、同じ主を拝する大きな仲間がいる。こうした人々と、多生の教義の違いがあっても、対立したりいがみ合ったりしないで、互いに招き合い、交流する、祈り合う、そんな平和な関係を築くように呼びかけられていると受け止めたいと願います。
私たちは教会について考えました。教会とは建物のことではありません。人の集まりです。弱い人、罪ある人の集まりです。汚れた者であったからこそ、清く洗われました。キリストの真っ赤な血で洗われて、すっかり汚れが消えました。これまで放蕩していた者が、自分ではどうしようもないのだからと主に委ね、神を見上げつつ立ちすくむ中で、信仰があるだけでたとえ何もしなくても、ただ与えられる晴れ着をまとう、あるいはキリストを着て、喜びの中で、与えられた主の道を歩みます。ヨシュアの見た幻は、私たちに与えられた教会での生活を思い返す機会を与えてくれました。この仲間に、加わりませんか。この仲間の関係を、いま一度かみしめ、その一員としてできることを考え、仲間との関係の修復に取りかかりませんか。私たちは、いつでもやり直しができるのですから。いつでも、祈り求めたその時が「その日」となることが、きっとできるのですから。