【メッセージ】知られている・知られたい
2019年10月27日
(詩編139:1-24)
神よ、わたしを究め
わたしの心を知ってください。
わたしを試し、悩みを知ってください。(詩編139:23)
有名になりたい。そんな人がいます。有名になりたくない。そんな人もいます。たしかに妙に有名人になると目立ち、攻撃されるというのは嫌だと思うのかもしれません。出る杭は打たれるというこの国の性質を鑑みて、そう感じるのも故無きことではありません。こういう人が皆そうだ、などと言うつもりはないのですが、有名になりたくないと公言する人も、心のどこかで、広く知られてちやほやされたい、という欲求を隠し持っている場合があります。「いやいや、私なんかそんな、とても」と遠慮する心が、実はその逆に認められたいという心理を表していることがあるのと同様に。
ひとを好きになったときにも、相手に自分の気持ちを知ってほしい、と強く思う場合もあれば、この気持ちは知られなくていい、と奥ゆかしく考える場合もあるのではないでしょうか。相手に配偶者や恋人がいる場合には、基本的に後者なのではないか、と考えるのは良心的に過ぎるでしょうか。昨今の恋愛事情だと、そういうふうでもないのかしら。
小さな子は、親を自分の人格の一部と見ていることがあるそうです。それとも自分が親の人格の一部と言ったほうがよいでしょうか。自分が何かおもしろいものを見たとき、「おかあさん、みて、みて」と母親を呼ぶのは、同じ経験を共有したいためでしょう。自分に何かができたときにも、自分を「みて」としきりに呼びます。自分のことを親は知っていてほしいし、自分の経験を母親も経験してほしい気持ちが溢れています。
人間が神をどのように捉えているか、それを一括りに述べることはできないのですが、神に自分が知られているという構図については、捉え方に大きく二つのタイプがあろうかと思います。知られていて安心だという気持ちと、知られているから恐ろしいという気持ちとです。
ダビデの詩だという、詩編139編は、主に自分が知られているという様子を余すところなく伝えています。
139:1 【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。
139:2 座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
139:3 歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。
139:4 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。
139:5 前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。
139:6 その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。
139:7 どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
139:8 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。
139:9 曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
139:10 あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
この後ダビデは、主が自分に対して計らっていることを喜び、「わたしはなお、あなたの中にいる。」(139:18)と零します。これは、知られていて恐ろしいかのように見えるかもしれませんが、どうやら安心のほうの部類のようで、後半は一気に、敵を滅ぼしてください、と願う言葉が続くようになります。それは、神が自分の悩みを知り尽くしているはずだから、自分が一番願っていることを分かっていてくださる、つまり敵を滅ぼしてほしいのだ、という運びになるわけです。
これも少しどうかなと思いましたが、自分が神の内にすっかりあるという信頼感を否定することはできないでしょう。思えばダビデは、人間として数々の失敗を犯しもしましたが、生涯この主の手の内に自分がいるという一種の安心感あるいは信頼感というものから、外れたことはなかったように見えます。神を信仰するというとき、立派な人間にならなければ、という思いに染まりそうになることが人間にはありますが、人間ダビデの信仰は、そんなときに大いに参考になるだろうと思われます。
しばしば、私たち聖書の読み手、受取手の側の心理というものは、同じ聖書のテクストを前にしても、その意義をずいぶんと変えてしまう場合があります。いま、このダビデの詩を、安心する方向で読みましたが、中にはそうは受け取れず、怯え出す人もいることでしょう。自分は昨日あれをした、これからあれをする、神はそれをもご存じなのだ、いま誰かを憎んでいることもお見通しなのだ、私は主の目から逃れられない、罪深いところを責められてしまうが、そうしたらもう一巻の終わりだ、と震え始める人もいるのです。
それは臆病であり、信仰のない態度なのでしょうか。私はそうは思いません。人間が誠実である限り、このような気持ちを懐くことは自然なことであり、また必要なことではないかと考えるからです。なにもそんなふうにナーバスにならなくても、と言いたくなる人もいるでしょうが、世の中にはそのようなナイーブさの強い人はたくさんいます。
引きこもりという問題があります。この言葉もどうかしらと思うのですが、他人との接触を避けて、自分だけの世界に閉じこもって生活している人のことです。他人とのコミュニケーションがうまくいかず、またこのように引きこもっているとコミュニケーションの機会もなくなり、ますますうまくいかないようになる。周りもそれを心配したり責めたりするものだから、ますます、周りから見れば頑なになっていく、手のつけようがない状態になってしまう様子です。年老いた親が、壮年あるいは老年にさしかかろうとするような子どもがそのような状態になっているのを憂えている様は、表にあまり出なくとも数多いものと思われますし、そのことを悔やんで子どもを殺すというような事件もありました。子どもが暴力的になり他人に危害を与えかねないものだから、それより以前に自分の手で子どもを始末するほうがよいのだ、と思い悩んだあげくの行為でした。
では引きこもりと一括りにされた人々、それは単に病的であったり、わがままであったり、コミュニケーション不全の問題を抱えた、それだけの人々なのでしょうか。もちろんそれをまた一括りにすることはできませんが、中には、とてもナイーブな方が少なくないと私は考えます。自分が傷つけられたくない、という思いのほかに、自分が誰かを傷つけたくない、だったら人と交わらないほうがましだ、という思考回路はありうると思うのです。ごく一部の友人だけとつきあうが、あまり社交的に誰彼構わず話をできるタイプではない、そういう程度の人ならば、もっと多くいるのではないでしょうか。他人が怖いというのもあるかもしれませんが、他人を怖がらせたくない、という思いが強いとき、自分が出て行くのを妨げてしまうブレーキがかかるのです。
これだとむしろ、優しすぎるという見方もできると思うのです。ずけずけと人にぶつかり、他人の傷つくようなことを言ったりしたりできるような人もいるし、えてしてその人は、自分が加害の側であるという意識がまるでなく、世の中はそうやって渡っていかなければならない、それができないのは弱いのだ、という人生観をもっている、そのような人も多々あるし、実のところそのように生きている人のほうが、社会では成功しているというふうに捉えてよいようにも思います。昔、「明るい」「暗い」という比較で人間を分けることが流行りましたが、そのときに「ネクラ」とレッテルを貼られた人は、肩身の狭い思いをしました。明るいほうが楽しそうには違いありませんが、ネクラの人は、とてもナイーブであって、他人を大事に考える、という場合もあったような気がします。引きこもりはやはりこのネクラの側にあるタイプであって、だから、引きこもっていることがすべてネガティヴでしかない、と決めつける必要もないと言ってよいと私は思います。
神が自分を知り尽くしている、と怯える人がいたとしたら、それもまた人を謙虚にさせる要素であるとポジティヴに評価したい。あっけらかんと、罪赦されたんだぜ、と大手を振って歩き回り、他人を裁きまくるような態度をとっている例を、見ないわけではありません。それに比べると、主の前に自分のような者はダメだ、と縮こまっている人は、確かにそうする必要もないとは思うのですが、他人を愛する思いに長けている場合だってあるのではないかと理解したいのです。但しいま申しましたように、イエスが罪を赦したというのは、臆病の霊に閉じ込めておくためではなくて、大胆に歩き始めることも認めており、またしばしば推奨していることからも、必ずしも縮こまって閉じこもっているほうがよいのだ、としているのでもないような世界を知ることができたら、いいだろうな、と願います。
ダビデの詩の後半は、自分は生まれる前から知られており、むしろ神によりそのように造られたのだというところから始まり、神がその私に対して計画していることを信頼していきたいという意気込みを思わせます。そして19節からは、結局ここで一番言いたかったのかもしれないような、敵を滅ぼしてくださいという願い一辺倒になっていくのです。このように、詩は、敵への復讐心に溢れ、いまの私たちにおいて強調するのもどうかと思われる方向に流れていきますが、それでもなお、新約聖書を踏まえた私たちとしては、もう少し穏やかにこの詩を味わう可能性を求めてみたいと思います。
139:23 神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。
139:24 御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください
もちろん、文脈からすれば、この「悩み」というのは、自分を囲んだ敵のことです。エルサレムを攻撃しようとする敵であるかもしれず、主なる神を憎み、神に反する輩であることは明白です。これに不安を懐く自分の悩み、私に関するすべてをご存じの主なる神は、それをも知り尽くしているというふうに信頼しますから、これを叶えてください、と願っているものと捉えてみます。自分が主を信頼しているそこに迷いは何もないということ、日本風に言えば賀茂真淵の「直き心」や「ますらおぶり」とでも言いましょうか、それは天地自然に従うという性格のものを言ったかもしれませんが、ストレートな信仰をそこに感じてみたいと思います。
ダビデは、詩の前半では、自分は神に知られている、ということを徹底して告げてきました。それでいて後半において、自分を神が知ってください、と願う祈りを見せています。ある意味でこれは矛盾です。神はすべてを知っているから、この自分の悩みも知っていて当然だ、と開き直ることもできるわけです。しかしダビデはそうはしませんでした。自分が全く知られていることを認めつつも、だからこの悩みも知ってください、と問いかけたのです。論理的には矛盾であるかもしれませんが、心情的にこれを私たちは理解しないと、人間らしい心で受け止められないのかもしれません。
でも何かしっくりこないものを残します。このどこか分裂した祈りは、ほんとうに矛盾なのでしょうか。もしかすると、ダビデが直接神に向かったこと、それは信仰的に正しいことであるはずですが、そこに何か不安材料があったのかもしれません。自分と神との間には、知られているという安心感があると同時に、知られていない面があったという戸惑いが、ここに見られるように見受けられるのです。
私たちはいま、新約聖書を踏まえています。だからこそ、ここで敵を滅ぼすという過激な方向に突き進む前に、知られていることと知られていたいことという側面を強調して捉えました。もう一歩踏み込みましょう。新約聖書を知る私たちと、ダビデとの決定的違いは何でしょう。そう、イエス・キリストです。私たちは創造主たる神と自分との間に、イエス・キリストを見ています。ダビデも「わたしの主」とぼんやり歌うことがありますが、キリストの救いの業を弁えている私たちとは少し違います。私たちは、イエス・キリストという道を通って、神につながることを赦されたし、またそこに救いの成就を確信しています。
神に知られている前提で、なおかつ神に知られていたいという祈り。この悩みを癒してくれる存在があるとすれば、このイエス・キリストしかいないのではないでしょうか。いえ、このイエス・キリストにそれを委ねるべきではないでしょうか。
祈りにこたえて 慰めたまわん
キリスト教で一番有名かもしれない賛美歌の歌詞が浮かんできます。いつくしみ深き友なるイエスが、慰めてくださるという告白。知られている・知られたい、このジレンマを解決してくださるお方として、キリストがそこに遣わされていたのだ。このように捉えることは、私にとり都合のよすぎる解釈であるかもしれません。しかし、神よどうして、と叫びたくなる時があったら、このイエスが取りはからってくださる、そういうものではないでしょうか。いえ、きっとそうです。どんな大それた疑問でも、どんな不条理な出来事の中であっても、イエスが、しかもしばしば十字架のイエスが、取り次いでくださり、私の悩みを問い、応えてくださる、そこに、新約聖書を踏まえた私たちへの福音があります。ダビデの詩に加えて、キリストの救いがそこにあるとき、私たちは、敵を滅ぼしてくれと祈る必要がないくらいに、安心することができると、強く信じるのです。