教会は変わるべし
2019年10月25日
世に置かれている限り、教会といえどもただの神の国ではありません。世知辛い算段も組まないといけないことがあり、そのひとつがお金の問題です。建物や活動を維持するだけでもずいぶんなお金が必要になります。これは国や地方公共団体から補助を受けるわけではなく、また営利事業も通常やっていませんので、ひたすら献金に基づいて支えられているだけのものです。
教会は、日本社会以上に、少子高齢化が進んでいるように見受けられます。そういう状態の教会が多々あることは事実です。教会員、すなわち献金者の高齢化と、経済状況の悪化は、献金額を明らかに減らしていきます。ただでさえ額としては多く稼ぐ世代の男性が教会に多いとは言えない状態で(それでいて役員にはそうした男性が多いというのはまた別問題ですけど)、その男性たちも定年を迎え収入が減るとき、次の世代が少ないというのは、完全に献金額の減少を招くほかの何ものでもありません。
だから伝道をしなければ、という発想も当然あります。他方、献金額を増やすためにキリスト教を伝えるということに抵抗を覚える人もいます。実はそれは健全な感覚です。そこに狙いが向けられると、必ず何かが歪んできます。
でも、教会がこの世で活動をすることになる以上、予算が必要ですし、金と無縁で成り立つわけではありません。芸術や文化も、パトロンを必要としましたし、貧しく一生を送った画家の美談も、実のところ特殊なものであるに過ぎません。そうでありながら、聖書で、とくに福音書のイエスの旅を見ると、裕福な暮らしを営んでいるようには思えませんし、まさにそのように教えを垂れています。神と富とに兼ね使えることはできない、というモットーが確かにあり、クリスチャンはそれを信じている、ということになっています。
なんともむずがゆいところです。
幸い、すでに立派な会堂を建ててしまっていたから安心というわけにもゆきません。維持費が必要です。そのため、電灯も必要以上に点けないがよい、と、手近なできるところから改善しようとする方もいます。その通りです。しかし一方、教会に灯がともらない様子を通る人に見せることは、世の光たる教会としては(もちろん光の意味が違いますが)、証しにならないのも事実です。暗い世の中の一筋の灯りを示すのは、節電だと称してライトを消していることと、さて、つながるでしょうか。
学生が教会に来るということを歓迎する気持ちは、きっとあります。若い力が必要です。ただ、学生は、時間を多少なりとも献げることはできるとしても、お金がありません。それでも、いつか育っていって教会を支えてくれると思えば、歓迎するというのが当然の道筋でしょう。それを賄い、支えるためにも、アダルトたちが献金するしかないわけですから、ここはまた大人の問題となります。
もちろん、教会堂がそこにあれば、老朽化やメンテナンスという意味でも、経費がかかります。いわゆる減価償却費として考慮していかなければ、冷暖房やエスカレータなど、あるときにたくさんの費用が必要となる場合があります。漏水や地盤工事などとなると、もう目も当てられなくなります。牧師給与の充実どころの騒ぎではありません。
昔を知る者にとっては、自分の中でだけ思い込んでいる「伝統」というものがあります。教会はこうあるべきだ、こうあるべきではない、牧師たるものは……などと。しかし、それは自分だけの「伝統」であり「常識」であるに過ぎません。教会音楽はオルガンが一番、などという声はいまだにありますし、讃美歌だけが礼拝で歌われるべき、などと頑固に言い張る役員さんも、いまなお存在します。しかし、時代は変わります。変わってはいけないもの、変えてはいけない神の言葉があろうとも、多くのものは変わり得ます。
教会堂を支えるスポンサーを外部に探すこともひとつでしょう。イベントの会場として利用してもらう、そこで一定のビジネスが成り立つ道を拓くわけです。いろいろと外部の要求を叶える必要が出てくることも覚悟の上ですが、しかしそのことがまた、地域とのつながりにもなることを考えると、教会というあり方が、ひとつの良い形になっていく可能性も秘めていると言えるでしょう。信徒の、信徒による、信徒のための教会堂というのが唯一のあり方ではないことを考えていく必要があるということです。
同時に、牧師とはこういうあり方なのだ、という思い込みからも解放されたい。もちろん、企業の論理を用い、貫けなどと言っているわけではありません。何かしら一線を画す必要はあります。しかし、画す必要のないところにこだわっているとき、時代の洪水の中に沈んでいくだけなのをみすみす放置しておく必要もなかろうかと思うのです(表現に今時分の配慮がないのは済みません)。
すでに動いていますが、来年度から、教育制度が大きく変わります。もう十年前の学生・生徒にも想像ができないくらい変わります。大学の地図も変わりますし、入試問題やその対策、つまり学習の仕方も全く違ってきます。まして親が、昔はこうだった、などという話は全く通用しません。昔はこんなふうに勉強したし、あそこの大学はああだこうだ、と口にしたところで、全く役に立ちません。まだそのことをご存じない方もいらっしゃるだろうと思うので、幾度でもこのことは申し上げます。
これと同じことが、教会の姿と世の中との関係、また教会を取り巻く人々の考えや眼差しにも言える、という点が、どうしても信じられない方が多くいて、教会が閉じこもっているのではないか、と危惧しているのです。従来の発想や常識は、思い込みに過ぎないとして、それらに縛られない動きと制度を切り拓いていく必要があるということを、どうか真摯にお考え戴きたい。昔の治療法で大丈夫、と意地を張っている間に、手遅れになってしまいます。
ではどうすればいい? それは、きっと現場の皆さまが、薄々感じていることでしょう。その教会教会に相応しく与えられた知恵が、随時与えられているし、またこれから与えられるものと信頼したいと思います。