【聖書の基本】主の祈り

2019年10月20日

天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください。(マタイ6:9-13)
 
「祈り」とは何か。そんなことが一言で言えたらノーベル賞がもらえそうです。そして「主の祈り」とは、イエスが教えてくれた祈りの模範だというような経緯がありますが、果たして歴史的にどういうところが押さえられているのか、少し気になります。どうしてこれが「主の」祈りであるというのか、という辺りを見据えながら、その歴史を繙いてみることにしましょう。
 
そもそもマタイによる福音書の、いわゆる山上の説教の中で、イエス自身が「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」(6:5)というように、偽善的振る舞いをしないようにという脈絡の中で、祈ることを教えようとしている場面を私たちは見ます。人に見せるようなものであってはならない。またくどくど長い言葉で祈るものではない、とも言った後「だから、こう祈りなさい」(6:9)と教えた、それがこの主の祈りです。
 
マタイが山上ならルカは平地の説教と言いますが、同様にイエスの教えを少しまとめた中に、この主が祈りについて教えたという場面があります。こちらでは、イエスが祈っていたのを見て、祈りが終わったときに弟子の一人がイエスに「わたしたちにも祈りを教えてください」(11:1)と頼んだことから、「そこで、イエスは言われた」(11:2)と何の飾りもなくストレートに祈りを教えています。それに続いて、夜中にパンを借りに行くしつこい求める話をして、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(11:9)とつなげるのです。マタイではこの関連は薄いのですが、ルカは求めること、恐らくは聖霊を求めることへと祈りを結びつけて伝えようとしているようです。
 
この「主の祈り」は、教会が伝えていた祈りのモデルを福音書に組み込んだとも考えられますが、教会が主から教えられたとして、どうしても伝えたい祈りのエッセンスがコンパクトにまとめられていることは間違いありません。多くの説教者がここからインスピレーションを受け、黙想し、一言だけで一時間でも思い描きつつ祈ることができるという人もいます。
 
前半は神について祈り、後半は人について祈る、整った構造を有しています。当時のユダヤ教の祈りが影響を与えているという研究者もいます。確かに無関係ではないでしょう。また、神に対して「父」と呼びかける考え方は、ギリシアやローマの文化にもあったそうで、ユダヤ教にもあったと言われますから、表向きは完全なオリジナルではないかもしれません。それでも、そこにこめた意味や信仰は、イエスを通じてもたらされたものはまた違うはずです。
 
ところでひとつ気をつけておきたいのは、「必要な糧を今日」という部分です。これは従来、そして祈祷文としては「日ごとの糧を今日も」と訳されてきました。「必要な」「日ごとの」の部分は、このマタイとルカの主の祈りの箇所以外には、この語は新約聖書には使われない表現なのです。造語かもしれないといいます。その日その日の、という意味なのか、明日の、という意味なのかすら、解釈が分かれてくるそうです。田川建三氏はこの一言のために13頁もの解説をつけています。新約聖書でも最も多く議論された語の一つだから、と言って。そして、これから食べるパンというあたりがよいと結論づけています。
 
また、「わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように」も悩ましいところです。「負い目」とは元々借金を表す語だったそうですが、神に対する負い目という意味で宗教的な意味で使われるようになりました。ルカははっきり「罪」と言っています。いずれにしても、わたしたちはすでに赦しました、と言ってしまうところが、私たちにとっては引っかかるところであることには違いないでしょう。
 
唱えられるときの「主の祈り」の定文にあるような「国と力と栄えとは/限りなく汝のものなればなり」は、新約聖書の本文に括弧付きで入れられることもありますが、新共同訳は全く入れていません。どうやら古い時代にその言葉が書き込まれた写本があるとのことですし、聖書以外の教父文書にも見られることから、かなり古い時期に「主の祈り」としてそれが加えられて祈られていたというのも本当のことであろうと思われます。確かに祈りとしては、その始まりに対する呼応としても、この末尾の部分はあって相応しい内容であるとは言えるでしょう。
 
こうしていま普通にこれは「主の祈り」として独立させることもあり、クリスチャンであれば暗誦していない人はいないと言われる(まぁそうなんです……か)ほどのものなのですが、冒頭の句を用いて表すのが聖書文化の伝統でありましたから、「われらの父」と呼ぶのが元来であったと思われます。1世紀の教会でも祈られていたことは確実とされていますから、この祈りはやはり軽んじるべきものではないとすべきでしょう。
 
但し昨今、神を「父」と呼ぶことに抵抗を覚えたり、問題視したりする声も強まっています。ここでは詳しくは語りませんので、そこに何かを感じていた方がいらしたら、そうした意見について調べてみるのもよいかもしれません。ただ、いきなり強硬な態度で立ち上がるというのも穏やかではない気がします。いろいろな意味合いや人の立場を考慮していきたいものです。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります