聖書の読み方
2019年10月19日
聖書の読み方としては、どうしても二つのフィールドを区別しておかないといけない、ととみに思います。二つのフィールドとは、書いた側の論理と、読む側の論理です。
過去、その文書を書いた側は、ある事象を体験し、あるいは思索し、また霊により示されて、テクストという形で伝えるべく遺したわけです。その時、体験・思索・霊知したことのすべてを完全に文字に含めることはできません。それで言葉を選ぶことになりますが、選ばれた言葉というものは、当時の文化の内部で記されたものですから、その時その場所での文化的制約の下に表現されていることになります。
私たち読む側としては、その過去の文化のネットワークを知り尽くすことはできません。懸命に調べ研究し、考えて理解しようと努めますが、言語自体の理解も含めて、完全にというのは無理な話です。書いた側の論理そのものは、当時当地のネットワークの中に置かれないと機能しない面がありますから、私たちは完全にそれを知ることは不可能なのです。いえ、そもそも言語で記された以上、事象を抽象したあり方で目の前に存在しているに過ぎないわけで、その抽象から具体へと解凍されるように戻すことは理論的にも不可能に違いありません。
そこで、読む側としては、私たちの時代と生きる場における環境の常識の中で、抽象されたその言語の伝えるところを精一杯受け止めて、今この場の中でそれを生かす道を採るしかありません。
かつての歴史を学ぶことは大切ですが、完全に同じ歴史的状況が再現したなどとは言えない以上、教訓として何かしら抽象したところを受け止めて考えるしかないのと同様に、聖書という形で遺された言葉を、元の形で完全に把握するということについては諦めなければなりません。それでも、それが把握できないというものではなく、今この場において受け止めることは可能だし、それをしなければならないと考えます。
それどころか、構造的に、たとえばイエスに出会うという体験を当時の人間が得ているならば、それと同じ内容ではなくとも、私たちもまた、イエスに出会うという体験をすることは、大いに望み得るし、またそのように体験しなければならないと考えます。
聖書というテクストを介して、同じ人間として、当時当地の書いた側の人々と連帯することは可能なのではないでしょうか。時と場所を超えて、霊において人がつながることは大いに期待してよいのではないでしょうか。そのためにこのテクストに向き合って、そこから命について知ろうとすることは、たいへん尊いものであると理解するのです。
だからまた、読む側の論理だけで読み取ったものを、書いた側がそうであると押しつけるかのように断言するような越権を行うことは許されません。まして読む側としてのひとつの側面であるに過ぎない自分の読み方というものを、普遍的なものとして現代の他の人々に対して優越するもの、甚だしいときには唯一絶対のものとして語ったり、あまつさえ強要したりすることは、厳に慎まなければなりません。
書いた側の論理を、読む側は決めつけることはできない。しかしまた、共にそこで同じ神に出会うことについては絶望する必要はなく、それぞれが別のイメージや経験によって出会ったかもしれないけれども、同じ神の許につながることを求め、希望していくことは十分に可能であるし、またかくあるべしと考えたいと思うのですが、如何でしょうか。