オリジナル

2019年10月17日

「イエスタデイ」という映画が評判になっています。私はまだ観ていませんが、観てきた息子が興奮して語ってくれました。もちろん、映画のだいたいの成り立ちは宣伝されている程度は私も知っています。ある時、ビートルズを誰も全く知らない世界を男が経験します。そこで自分の知っているビートルズの歌を歌ったところそれはすごいともてはやされ、スターダムにのし上がっていくというようなところから始まる物語だそうです。
 
これは想像しただけでも楽しい。そんなことがあるかどうかということ以前に、そのような場面設定が、ふだん私たちが気づかない何をもたらしてくれるか、というところで、想像力を活性化させてくれることは間違いありません。映画には、音楽の世界に対する問題意識や提言も隠れているのではないか、と息子は捉えていましたが、そういうことを制作側も盛り込んでいるには違いないし、それでいて、観る側が自由に受け止めたり考えたりしてよいところも、映画の楽しみであるかもしれません。
 
ところでこの話を聞いて、私はすぐに、イエス・キリストを誰もが知らない世界に私がひとり置かれたという情景を想像してみました。聖書にはこんなことが書いてあるんだよ、と言い始めたら、教祖にまつりあげられる……なるほど、そういうストーリーもアリなんじゃないかと思ったのです。しかしそれは、キリスト教が全く知られていない地域に宣教に行く宣教師などは、ある意味でガチに体験していることになるといえるでしょう。パウロとバルナバも、癒しの業を行ったところ、ギリシアの神々として扱われようとしたことがありました。ある意味でかのビートルズの空想話も、かなりリアリティのあることだと言えるかもしれません。
 
ピカソだって、夏目漱石だっていい。自分だけがその良さを紹介したら、まるで自分がそのオリジナルのように扱われるというストーリーは、こうなったら幾らでも作れそうです。つまり、こうした「構造」が物語のひとつとしてありうるということです。
 
このオリジナルこそ本物なのだと言いそびれたとき、自分に称賛が集められることになる。偽物というのはこういうことを意図的に操ろうとします。そんなことまで考えてくると、けっこう奥が深い問題となりそうです。
 
さて、そうなるとこの私だって、本物の私なのだろうか。何かの真似をしている、ただのフェイクであるのではないのか。ふとそんなことを考えはじめると、ますます問題は深くなりそうな気もします。



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