主はあなたを守ると災害の時に語れるのか
2019年10月15日
バプテスト連盟の教会の中には、先日10月13日の礼拝で、詩編121編が開かれた教会も多いことでしょう。『聖書教育』という教案誌が、当日この箇所を指定しているからです。
そもそもこうした教案誌を用意するというのは、日本の(そのグループの)教会が、共通の聖書の言葉から一つにつながろうという意図からなのでしょうか。受け取るほうからすれば、確かに箇所が決められていたら楽です。また、牧師の好みに偏らなくてよいかもしれず、あるいは牧師にとっては苦手な箇所から説教を強いられる場合もあるとすると、むしろ語りにくいということがあるかもしれません。しかしまた、自ら神に示された聖書の言葉を語るべきだとする考えからすると、他者が指定した聖書を説き明かすということでよいのか、という見方もあるかもしれません。
しかし今日はそのことを問題にするのではなくて、この13日の詩編そのもののことです。牧師たちは、前日に、あるいは当日の朝にようやく説教原稿を完成する、ということがありますが、概ねそれ以前に構想はしており、用意のよい方はそんな切羽詰まらなくても話す内容についてはほぼ出来上がっているということも少なからずあるものと思われます。たとえ前日の夜に語ることが決まっていたとしても、その夜、事態は変わりました。
台風19号です。その勢力の強さや大きさからして影響が出ることは、薄々予想はしていた、あるいは覚悟はしていただろうと思います。しかし、夜のうちにすでに被害が報じられたほか、翌朝、つまり主日礼拝開始が迫るその朝に、ニュース番組が突きつけた映像は、堤防の決壊から広大な平地において、住宅のほぼ一階分が浸水した姿でした。屋根の上で白い布を降り、救助のヘリコプターに気づいてもらおうとする人も、中継に映し出されました。こうした報道を見て、少なからぬ牧師がためらったのではないかと思いました。
この日、『聖書教育』が指定していたのは、詩編121編でした。新共同訳では次のような訳となっています。
121:1 【都に上る歌。】目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
121:2 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。
121:3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。
121:4 見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。
121:5 主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
121:6 昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。
121:7 主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。
121:8 あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。
さて、この主日の朝を、家を失い、命からがら避難した人々、また家族や知人を喪った人々、田畑や財産を台なしにされた人々が、どのような気持ちで迎えていたか。安息日に人を助ける方がよいではないか、と私たちに教えるかのように、懸命に救助に駆け回る関係者。そんな姿を横目に、ハレルヤ感謝しますと賛美歌を歌い、へたをすると台風が来なくて守られました、などと祈ったかもしれないような、キリスト教会において、「主はあなたを見守る方」「主がすべての災いを遠ざけて」などを、説教で恵みとして信仰に励みましょうとばかりに説教する原稿を用意していた牧師は、何をどう語るとよかったのでしょうか。
当たり障りのない、思いやるような祈りでしょうか。被災者のために祈りましょうと声をかけつつ、用意した通りに、主はあなたを守られます、と力強く語ったのでしょうか。確かにそれも福音ですし、詩編はそのように歌っているのです。
礼拝後の分かち合いで、この点について提議してくれた人がいました。そして、集まった面々は、重い気持ちでこのことを受け止めました。いったい、私たちは福音としてこの詩編を、あの映像に映し出された、あるいは映し出されもしない、絶望的な状況の中にいる人々に対して語ることができるのでしょうか。
神は、水に流されたその人と共に流されていたのだ。新たな視点の神学が呈示されたこともあります。それは一定の慰めにはなりますが、そのことは、誰にとり、どのような良い知らせとなりうるのでしょうか。いったい教会は、そして聖書は、あの被害を受けた方々に対して、何を告げることができるのでしょうか。いや、そもそも向き合うことができるのでしょうか。目も合わせられないのではないでしょうか。
熊本の益城に、慰問として年に六度訪問しています。仮設団地の集会所で、ささやかな憩いの場を提供するだけの企画ですが、最初はどのように顔を向けてよいのか、不安でした。なにしろこちらは家もあり何不自由なく暮らしている身分です。それを、家も財産も失ったお年寄りを前に、何ができるというのか。どのように見られるかということを思うと、厳しいものを覚悟せざるをえなかったのです。
しかし、そのうちにその考えは変わりました。仮設住居の中で、することも特になく閉じこもりがちになり、そして元の村や集落から離れたところに突然住むようになり、かつての顔見知りの親しんだ共同体から切り離されて人間関係をも失ったお年寄りが、2カ月に一度のこの場を楽しみにしてくださっていたのです。そう、たった2時間ほどですが、毎度同じ顔ぶれを見て、安心して話ができる。歌ったり、踊りを見たり、日常とは違った空間に身を置くことができる。いや、本当のところはどういうことかは、やはり私たちには分からないまでも、私たちがその場を提供して受け止めてほしかった以上に、被災された方々が何らかの形で受け容れてくださっている。そして次回の予定が今回より一週間遅くなると聞いた暁には、待ち長くなるなどと言って楽しみなんだと口にしつつ、笑顔で帰って行く。それを見たとき、ここへ来ていることには何か意味があったのだと思えたのです。
聖書の言葉を切り取ってきて、聖書にはこのように書いてある、とそれを教えとして呈示してくる、キリスト教にはそういう一面もあろうかと思います。殊更にそういう点で押し進めるグループがあることも弁えています。行ってしまえば、ファリサイ派や律法学者はそんなふうだったんだと思うのですが、聖書の言葉を「教義」として、一定の命題集として扱い、そう規定してしまう誘惑に、人間は惹かれやすいと思うのです。きっと、そのほうが精神的に楽だからです。自由の恐怖というか、こうすればよいという確かな教えに従っていることのほうが、人間は楽なのです。しかし、イエスはそれと真っ向から対立し、それこそ鞭を振り回し、売場を蹴散らしたのでした。人は、イエスがこのようにした、ということを、またもや教義にしてしまい、それに適さぬ者を罪に定め軽蔑するようなスパイラルに陥ることがある、というか、きっと人の性としてはそのようになる、と私は見ています。
この詩編を教義として用いるならば、主はあなたを災いから遠ざけて守るはずだ、という命題に固執し、災いに遭った人が裁きによりそうなったのだ、というようなとんでもない結論に至る可能性があります。現にそのように発言している「クリスチャン」のツイートも散見します。いったい、聖書はそのような教義なのでしょうか。だとしたら、あちこちで正反対のことを命じたり、何かしら相応しからぬ教えがあったりして、教義集としての聖書は崩壊するのではありませんか。
詩編121編を、被災者に突きつけるようなクリスチャンはいないと私は考えたい。一部の「クリスチャン」は、私の仲間ではない。しかし、だからと言って、121編が無意味になるのでもないと私は思います。あるとき、ある状況で、私はこの詩編を自分と神とを結ぶ言葉として感謝に溢れつつ受け止めることでしょう。また、この言葉を以て祈ることでしょう。でもそのようには使わない場合もあることでしょう。その都度、ひとを生かす言葉が、聖書のどこからか開かれる。聞こえてくる。すべての言葉が一度に現実になって立ち現れてくるわけではない。何かしら生き生きと、命をもたらす言葉として、そのひとを生かすべく働く言葉が、ふさわしい姿でもたらされ、それが実現し出来事となる。別の詩編が、別の預言書が、いまの自分を立ち上がらせてくれる、と出会い、それを握り締めて前進する、それがまた人それぞれにおいて起こる。このようであるからこそ、人が神と出会い救われたときの証しが、人の数だけあることになります。特定の教義で聖書が説明されまとめられるのであるならば、誰もが同じように「クリスチャン」に製造されて然るべきなのではないでしょうか。
これは神義論ではないつもりです。私はただ、誰にでも、その人に相応しい仕方で、その人が聖書の言葉に生かされることがありうると言っているだけです。神と出会いうると言っているだけのことです。特定の聖句を取り上げて、これを誰彼ともなくぶつけようなどというつもりはさらさらないのです。特定の聖句を振りかざし、正義の刃を人々に突きつけるような気には絶対になれない、と思っているのです。
被災された方々のために身を粉にして「安息日」に働いていた方々、心から敬服します。ありがとうございます。現地ではさらに救助や援助のために働く方々が必要でしょう。福岡で祈ることしかできませんが、でも祈ることができます。聖書の言葉を押しつけて威張るような気持ちは全くなく、でも、聖書の言葉は何か力をもたらすことがあるということだけは、疑う気持ちが、それ以上に全くないのです。その意味で、いまこの場で面と向かって振りかざす気はありませんが、何か必ず、神があなたを守るということが実現することも、確信していると言えます。守られますように、との願いではありません。守られます、という確信です。私はそういう信仰をもっています。
ただ、いまも助けを待ちどうしようもならない状況に追い込まれている方々に、今日必要なものが備えられ、明日を生きるための光が射すようにと祈ることだけは、どうしても止めることができません。それしかできなくても、さしあたりそれしかありません。