【メッセージ】帰れ

2019年10月6日

(詩編90:1-17)

あなたは人を塵に返し「人の子よ、帰れ」と仰せになります。……主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。(詩編90:3,13)
 
詩編90編を読みます。ただ、ここから91編、92編と一続きの流れがあり、私たちが神を住まいとすることの恵みを歌うひとときが与えられることは、感謝しつつ受け止めたいと願います。その中で、詩編90編に限定して、しかも少し見る角度を変えて味わってみようと試みるのが今日の眼目です。
 
詩そのものは、主を神と仰ぎ、人間の時間が神の時と比べてほんのわずかなものに過ぎないことを自覚しつつ、その中で自分が主の懐の中で力づけられ、喜び生きることができるようにと願います。これまで苦しいこともありましたが、私も、そして子孫も、あなたを仰ぎ見て喜んでいられるように、また私のなすことを祝福してくださるようにと求めます。
 
詩編は、神の言葉である聖書という中で、どうしても特異な位置を占めることになります。信仰者が、神の言葉である聖書、と口にしても、詩編はどう見ても人間からの言葉であるからです。もちろん、モーセにしろ預言者にしろ、人間が書いたものではないか、と突き放して考える方もいるでしょうが、神が告げた、という主旨で語られていることが多く、また神がこの歴史の現実を確かに導いているという前提で出来事を並べていくのが通例ですので、単に人間から発し生まれる言葉だ、という訳ではない説明が可能になります。そこへいくと、詩編は、神がこう語る、というような部分もないわけではないのですが、おもに詩人の側から神に祈り願うというスタンスが中心となって歌われている点は否めません。時に敵に対する激しい復讐の思いをぶつけるなど、人間臭い考えに満ちている場合もあり、さてこれをどう「神の言葉」と呼ぶべきか、悩むところがあるのは事実です。
 
至って人間的な考えに貫かれているかもしれない詩編。しかし、その眼差しは確実に神に向かっています。神との間に存する世界の中での出来事としてその詩編が成り立っているのなら、それは神から発されたとは考えにくい場合でも、神「の」言葉であると捉えることはできないでしょうか。神なしにはその言葉は現れ得なかったのです。神と人との関係の中で生まれ、キープされてきた言葉であることは確かであって、その意味で、神「の」言葉であると理解したいのです。
 
詩編の原文は、訳しづらいものだと思われます。出来事を記す文章であれば、それなりの秩序がありますから、母音表記を欠くヘブル語の文で、同じ子音の語がそこにあったとしても、それはこちらの意味だろうと誰が考えても同じ意見になるというのが普通であるでしょう。しかし、詩となるとそうはいきません。象徴的表現や当時の諺や文化の中で、突如として現れる言葉が、どういう意味の言葉であるのか、判断ができないこともあるはずです。また、文法的にも詩だと散文にはない技術の中で書かれてきますから、なおさら意味を特定しづらいことになりかねません。日本語でも、歌の歌詞の意味がぼやけていたり、不思議な喩えが現れたりするのと同様で、それが昔の言葉、違う文化を背景としていると、翻訳は大変だろうと思います。そして実際、訳を比べてみると、これが本当に同じ原文なのだろうか、と疑いたくなるほど全然違う言葉が並んでいるようなことも少なくありません。もちろん私などには、そのどちらが適切であるのかを判断する能力はありません。
 
こうした点は踏まえた上で、日本語の詩編を体験していくことをしなければ、訳者の判断でひとつに決められたその訳語だけを神の言葉のすべてと信頼し過ぎて、偏った想像に突き進んでしまう可能性もありますから、気をつけなければなりません。これを戒めとしながらも、今日はこの中から気になる言葉に注目してみることにします。
 
90:3 あなたは人を塵に返し/「人の子よ、帰れ」と仰せになります。
 
人はアダムの話にあるように、塵から造られました。そして罪を犯したとき、塵に返らねばならないというお達しを受けました。いままた、神は人に対して、わずかな年月の一生を生きた後に、その塵に返るしかないことを告げます。厳しい言葉です。詩人はこの詩のかなり長い部分を、人の命のはかなさを示すために言葉を費やします。主を前にして、人間に許された時間というのは、なんと短いことでしょう。たとえ千年の時を生きたとしても、神の前には一瞬に過ぎないようなものでしかないのです。神が世界を創造したのが紀元前3761年10月7日とするユダヤ暦からすると、この千年という時のウェイトが分かりますが、それにしても、神はその時間紀年の外にいることで、計り知れない世界の話なのだと感じます。
 
90:4 千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。
90:5 あなたは眠りの中に人を漂わせ/朝が来れば、人は草のように移ろいます。
90:6 朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい/夕べにはしおれ、枯れて行きます。
90:7 あなたの怒りにわたしたちは絶え入り/あなたの憤りに恐れます。
90:8 あなたはわたしたちの罪を御前に/隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。
90:9 わたしたちの生涯は御怒りに消え去り/人生はため息のように消えうせます。
90:10 人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
90:11 御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて/あなたの憤りをも知ることでしょう。
 
そうして、だからこそこの短い一生の中で、何が大切なことであるのかを見極める知恵が必要であることを告白します。
 
90:12 生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。
 
そうして、詩人は突如として、口調を変えてこのように言うのです。
 
90:13 主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。
 
詩編の詩は、時にただ神をたたえるばかりのものがあります。それはまるで、ワーシップソングのように聞こえます。ワーシップソングは、音楽の心得のある人がすぐに作れそうな気がして、美しいメロディがつけられて愛されることがありますが、中にはその歌詞が軽すぎることを嫌う人もいます。同じ言葉をただ繰り返してムードを作っているけれども、果たしてそこに信仰があるのかどうか、また何かしら人として共感できる部分があるのかというと、ただの言葉の羅列を楽しんでいるだけではないのか、という意見です。それも一理あります。かといって、かつての『讃美歌』のように、いささか情緒に傾いた訳詞ばかりが並んでいるのも、心情的な豊かさを感じることはできても、本当にそれで神を称えているのかどうか、分かりづらいことがあったのも事実です。元々の賛美歌集である詩編の中に様々なスタイルがあるのですから、私たちの歌う賛美の歌詞も、様々な形があってよいものでしょう。ひとつの種類のものばかりでなくてよいわけです。なんだったら、時に敵を呪うような賛美歌があっても、よいのかもしれません。あまり公表はできないかもしれませんが。
 
90編の詩は、ここまでの半分余り、神を称えると共に、人の命のはかなさのようなものを感じさせる流れがありました。しかしこの13節から、より切実に主に呼びかけ、願い求める口調に変わっています。「主よ、帰って来てください」と呼ぶからには、いま主が共にここにいなかったことになります。詩人たちは捨てておかれたのです。力づけられる必要があるほどに消沈していたのです。この現実が伝わってきます。実は辛い心境でいるのだ、と分かります。
 
そしてここには「帰って」来てくださいという表現があります。これは、3節にあった「人の子よ、帰れ」の「帰れ」の語と同じ語です。人間は土に帰る、他方、主がこの苦難の中にいる私たちのところに帰る、これが同じ語で言い表されているのです。これは詩の最初のほうと、終わりのほうとにあるという意味で、はさみこみの構造からしても、呼応していると考えることができるはずです。神は人間に土に帰る時間の短さを宣言する一方、その人間の側からすれば、神に帰ってきてほしいと願っているという対応があります。
 
すると、いま詩人のところに神はいないことになります。神が顧みてくれていないという寂しさを覚えていることになります。でもそのようなことがあるでしょうか。続くフレーズでは、しきりに神に願っています。
 
90:14 朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ/生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。 90:15 あなたがわたしたちを苦しめられた日々と/苦難に遭わされた年月を思って/わたしたちに喜びを返してください。
 
律法があるということは、それが実行されていないからである、という読み方の鉄則があるとすれば、してください、と願う祈りが続くときには、それがなされていないからだ、と考えることができます。神の愛を感じることができない詩人、喜び祝うことができないか、あるいはできてもほんの一瞬だけ、という様子が見て取れます。そしてついに告白することには、主が私たちを苦しめたのだ、と分かります。敵が苦しめたのではなく、サタンが苦しめたとも言っていません。主なる神が苦しめたのです。しかもそれはそれなりに長い年月でありました。苦しみは長かったと振り返るのはよくあることです。それも、神の仕打ちなのだと思っているとなれば、絶望感が漂います。それではいったい誰が救ってくれるのでしょうか。神の罰を自分は受けているのだろうか、と詩人は悩んでいることが予想されます。「あなたがわたしたちを苦しめられた日々」とは、なんと辛い言葉でしょうか。神により痛めつけられたのならば。あるいはまた、これはイザヤ書の苦難の僕のことを言っているのだろうか、とすら思いたくなります。
 
いよいよ詩が閉じられようとするときに、詩人は「〜するように」と祈ります。「してください」より一歩退いたようなアングルで、事態を見ている様子が想像されます。
 
90:16 あなたの僕らが御業を仰ぎ/子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。 90:17 わたしたちの神、主の喜びが/わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを/わたしたちのために確かなものとし/わたしたちの手の働きを/どうか確かなものにしてください。
 
詩人は、モーセだという表題が付いています。昔人は、主に選ばれ主の友として六十万人のイスラエルの民を率いて四十年にわたりエジプトからカナンへ旅を続け、イスラエルの根本を形成する律法を言い渡したというモーセが、最後に約束の地に足を踏み入れることを許されなかったという厳しい措置に、神と人との関係の用意ならぬ部分を覚えたのではないでしょうか。モーセは、神の道具として用いられながらも、夢が果たせずに塵に返りました。主により、そうなりました。そのモーセが、切に主に祈り願った思いを、この詩に重ねたのかもしれません。
 
教会の奉仕に奔走し、充実した教会生活を送っているような人の姿が目に浮かんできます。それは一種幸せであると言えるでしょう。けれども、人生の短さを感じ、また主の臨在の無さを寂しく感じていないとも限りません。神よ帰って来てください、との切実な叫びを胸に秘めているかもしれません。一度は共にいた実感がありながらも、神が遠く離れているような思いに支配されている、そんな教会生活者がいることでしょうし、それはあなたであるとも言えることがあるでしょう。
 
「神よ帰って来てください」、それは、もしかすると、「人の子よ、帰れ」と逆に呼ばれていることに気づけというふうに解釈する余地を残しているのではないでしょうか。それは塵に返れという文脈的な意味を示すと共に、神のほうが、こちらを向け、と呼びかけているように聴き取ることができるということです。あなたは神から離れているのではないか。いまこそ神のもとに帰れ、とこしえに神である主のところへ帰れ、と。すると詩の一行目が、それまでとは別の意味で響いてきます。
 
90:1【祈り。神の人モーセの詩。】主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
 
私たちは主の許に立ち帰り、そこで、つまり神の国に宿るべく、呼びかけられている、というように、詩の最初に戻ることが、詩の最後の、私たちの働きが確かになることと同一の世界を伝えているのだとすれば、それはただ克服されるようにというような、願い求めるだけの思いの事ではなくて、私たちの辛さも寂しさも超えて喜びに包まれたありさまへと導かれることが確信されると思われてなりません。ひとつの詩から、私たちは信仰を強められます。そうなるとこの詩は間違いなく、神から与えられたプレゼントであったのです。単なる人の側からの思いが綴られただけのものではなくて、神からの力がこの詩の言葉を味わうことによって注がれてくるものだったのです。



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