街頭募金
2019年10月5日
街頭募金活動に、ひとつの岐路が迫っているように思われます。すでに私の学生時代からそうでしたが、偽りの募金が街にうようよしていることがはっきりしています。団体名を明らかにせず、ただ「恵まれない子のために」と言って箱を抱えているおじさんもいましたし、堂々と何か団体名を掲げてはいますが、それがカルト宗教団体が運営する組織であるということもありました。子どもたちの野球チームのメンバーをユニフォーム姿で並ばせていても、そういう組織が何か聞こえのよいことを言って利用しているような場合もあるわけです。さも福祉のためと言って小さな物品を売りながらも、その組織が発表している収支を見ると、どう考えてもそのようにして売っている額からはありえないほど少額だけを用いて車椅子などを寄贈して、どうやら他の大部分は組織に流れているであろうとしか考えられないこともありました。そしてそういう事態も、一般に知られるようになりました。
つまり、街頭で、あるいは訪問によって、募金を集めている者たちに対して、世間も賢くなり、疑いの眼差しを向けているという現状を否定することができません。かつて慈善でなされていた募金活動が、慈善だけで済まなくなっている実情があるというわけです。正式な通達のような案内を以て、了承するなど、学校関係で募るものについてもずいぶん慎重になってきています。
さらに、こうした考え方もあります。街頭募金に集まるために、交通費を用い、ガソリン代を使い、飲み物を買う、それ以上の募金が集まっているのだろうか、と。つまり、いっそのこと、費やされる手出しの金額をごっそり寄付したほうが、額が大きいということもありうるのではないか、という問題です。
Tシャツを買えばそのうちの100円が寄付されます、といった呼びかけもあったりします。そういうチャリティめいた誘いもありますが、それに協力してTシャツを500円で買ったとしますが、そのTシャツそのものは自分にとりあってもなくてもよいようなものであったとするならば、いっそその500円全部を寄付したほうが、よほど役に立つ、という考え方もあるでしょう。
いや、街頭募金は額の問題ではない、数字じゃないんだよ、それで多くの人に協力してもらうことに意味があるし、そういう運動のアピールをすることにもなるから、単に数字だけを考慮すべきではない、という考え方があることは分かっています。目的が、知ってもらうことにあるのであれば、それで十分です。しかし、多くの場合街頭募金をする目的は、施設に必要な「額」を集めることであることも確かです。もし募金で集まる額が、協力者の手出しの交通費その他の額を下回るようであったら、施設のためにはむしろよろしくなかった、という捉え方も成り立つはずです。あくまでもその宣伝効果を別にするならば、の話ですが。
時代はいま、クラウドファンディングという呼び方で、募金を集めるようになってきました。これだと交通費や手間暇をかけずに、協力費を集めることが可能です。主催側もそれなりに信頼のおける形で世に出しているということになれば、効果は絶大です。通信費やサイト構築費などは、殆ど気にすることがない程度の額でしょうし、一度に告知もでき、街で居合わせた人々に限らず、誰もがその場で指ひとつで、決して小銭とは言えないような額を募金してくれることになります。
そこには信頼が要求されるでしょう。また、協力してもよいという魅力を与えるものが必要でしょう。そうは言っても直に、生で人に接するからこその募金なのだ、という価値観の方もいらっしゃるでしょうし、それでよいと思うのですが、それだけでは成り立たなくなっている社会の現状は考慮しなければならないのではないでしょうか。
旧態依然という言葉を悪口にように使いたくはないのですが、後手後手に回ることで、取り返しのつかないところに来ているものを、もしも身近に感じるのであれば、その感覚は決して間違ってはいないと思います。最先端にすぐに手を出せと言いたいわけではありませんが、「以前からそのようにしていたから今回もそうする」式の発想だけでは成り行かないのは確かです。企業の論理であるのかもしれませんが、イノベーションは必要だと考えます。