慣れれば普通に、そして当然に

2019年10月1日

消費税の割合が今日から上がる。まだ先かと思っていましたら、今日になってしまいました。そしてマスコミが大騒ぎ。増税後のシステムについての解説も多かったのですが、もしかするとそれ以上に、増税前の買い溜めやセールのことが話題に上っていたような気がします。単純に言うと呷っているのですが、売る方も必死なので、慌ただしく派手なセールの文句が飛び交い、人々もどうやら保持できる日用品をガンガン買い込んでいるように見えました。
 
かつて初めて消費税が導入されるときには、とにかく経験のないことでしたから、人々はとんでもないことだと騒ぐことになりました。不安で、不気味なものに思えたということでしょうか。でも、一度それが始まり、その生活に慣れていくと、まあそんなものなんだということで、いつしか抵抗がなくなっていきました。
 
それでも、税率が上がるとなると、またもやもやと不安な思いが起こり、反対する声もありましたが、二度目となるとあまり抵抗なく受け容れていくように見えました。これも、一度目の不安感が、経験をして平気になったようなものでしょう。自分が知らないことに遭遇するのは怖いもの。でも、そうせざるをえないようになって、そういうことを経験してしまうと、まあ仕方がないとでも言うように、受け容れていく。それはまた、生きる知恵でもあるのでしょう。結局環境を受け容れていくしかないのですから。
 
これまでと違う事態になるのは不安ですが、慣れてくると平気になります。いえ、むしろそれが当たり前のようになります。そんな中、新たに生まれた子どもたちは、生まれたときからその環境ですから、かつて親が不安と共に精神的な闘いをなしつつ受け容れるに至った新たな事態が、その子の当然すぎる普通の世界となってしまっています。これは時代の変遷としてはやむをえないところですが、意図的に教育を施す中で、一定の思想だけの環境に閉じ込めてしまうと、それを当たり前のことと考える価値観に染まってしまうということは、十分に考えられることでしょう。かつて、あるいはいまも、そういう制度の国はあるし、為政者がそのようにしたがるという場合も見かけます。いえ、自由主義を誇る国が、実のところそのような罠に陥っていないとも限りません。自分の常識や真実は、誰にとってもそうであるわけではないのです。
 
パウロなども、自分がそれまでのユダヤ教をいわば歪めてしまったのに、今度はその自分の思想を修正しようとする輩が現れると、烈火の如く怒り始めます。そしてそれを受け容れた遠方の仲間をぼろくそにも言うのです。クリスチャンにとりパウロはある意味で絶対の存在ですから、通常パウロの味方の側に自分は立つことを当然視していますが、傍からこの争いを見たら、たぶんどっちもどつちのように見えるのではないかと思います。
 
最初は受け容れられなくても、一旦受け容れて腹が据われば、それが当然のこととして受け容れることができるようになり、そればかりか、それでなければならない、と今度は他の人に圧迫を加えるようなことさえも平気で行う。それが、人間の歴史には、もう必然的と呼んでよいほどに、刻まれてきたことでした。私たちはいつでも、自分が世界の基準だと考えが地ですから、よくよく気をつけなければなりません。
 
さて、今回の消費税アップが話題になっているのは、物により、また場合により、その税率が違う、一種のダブルスタンダードになっているという初めての事態と、電子マネーやクレジットカードへの優遇措置や、レジシステムの入替の必要と小規模店のための制度など、あまりに詳細に異なる扱いが多いので、分かりにくいこと、また何かしら「うまい」方法があるのではないか、「損な」目に遭う可能性を避けたいなど、多くの話題を提供したという事情もあるようです。でも、それでもそのうちに慣れてくると、なんとも思われなくなるのでしょうか。
 
いま戦争はよくない、と口にしている人も、そういう環境になれば、果たしてどうなるか。人間一人ひとりを疑うという眼差しを推奨するわけではありませんが、鼻で息をする者に対しては、全面的な信頼を以て期待するということに、釘を刺しておく必要があるように思われます。慣れてくると、それが当たり前になり、それを当たり前にするように他に対しても働きかけていく。そんな人間の性について、心得ておきたいものです。



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