【メッセージ】マラからナオミへ

2019年9月29日

(ルツ4:1-17)

ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。(ルツ4:16)
 
いよいよルツ記が閉じられようとしています。物語最大のクライマックスが訪れます。ボアズは、ルツを贖う権利をもった親戚とある意味で対決するために、人生を懸けた決意を胸に出かけます。町の門で、証人たちの前でそれを行わないと、一種の民事裁判は成立しません。相手の親戚の人の行動を知ってのことかどうか知りませんが、ボアズは待ち受けて相手を座らせ、証人も十人集めていました。
 
事情を陳述します。モアブから帰還したナオミが、一族エリメレクの土地を手放そうとしていることについて、責任を果たすつもりがおあかどうか知りたい。いろいろ考えたのでしょう。ボアズは、考えてきた手はずを実現すべく、この事情説明から入ります。証人たちにも分かりやすい話だと思われます。貧しさの故に、その家に与えられた土地を他人に買い取られてしまうことがないように、近親者がそれを買い戻す義務がある、というような背景があるようです。
 
そもそも故郷を捨ててモアブに逃避したような者の名で土地があるということも、不思議です。そういう律法だったと言われればそれまでですが、ちゃんとエリメレクの土地があって、その親族の土地の一つとして認められていたわけです。これを買い戻すということは、いくらかの出費はあるのでしょうが、土地を得るという意味では悪い話ではありません。それなりの財力があれば買いに出るものだという理解があったのかもしれません。その相手は、買って出ました。
 
ボアズにとっては、ここでもし権利を放棄してくれたら、第二位の位置にいるボアズは難なくルツをも手に入れることができたのです。しかし第一の企ては失敗しました。では第二段、というより伝家の宝刀なのですが、ボアズは、土地と共にモアブ人のルツも引き取らなければならないことになっていましたよね、と持ちかけます。外国人の女を養うようなことを好ましく思うユダヤ人はいないという前提です。案の定、相手は土地をそこまでリスクを背負って買い戻すようなことをする気持ちは起こりませんでした。
 
ボアズは相手が履物を脱ぐという形で意思を表明したことで、すかさず権利を自分のものにしようと動きました。そしてルツを妻とすることを宣言します。これほどの財力をもったボアズという人物像が、その性格的な面は読みとれても、私には、社会的な面が分かりません。独身だったということでよいのでしょうか。それとも複数の妻をもっていたのでしょうか。年齢はどうなのでしょう。とりたてて若くはないと思われますが、ルツとて嫁いで最大十年近く経つわけで、若くしてそうなったとしても二十代半ば以上となるでしょうか。ボアズはそれよりは上であったことが予想されます。ただこうした推測は何にも分からないというのが正直なところで、聖書は人物の背格好や顔立ちなどについて、めったに描くことがないのです。年齢すら分からないことが殆どです。ボアズとルツのイメージも、やっぱり誰にも同じようにはもたれていないのではないでしょうか。
 
ユダの飢饉の故にベツレヘムを離れ、異邦人の地モアブに移り住んだエリメレク一家が崩壊し、飢饉から立ち直ったユダに舞い戻るという図式で、しかもモアブの女をひとりナオミが連れて帰ったありさまは、ベツレヘムの同胞にとっても面白くなかったのではないか、という前提で、このルツ記を読み始めました。しかし今、そのモアブの女を、地元で有力者と思しきボアズが妻とすると言い、エリメレクの土地を安定した環境に置くことができたということを、地元の人々は喜んだ様子が描かれています。ラケルとレアのように、などというのはイスラエルを増やす祝福の言葉であると見てよいでしょう。さらにルツにより子が産まれることを願うような言い回しがありますから、これまでボアズには子がなかったのではないか、とも推測されます。
 
男たちはこのようにボアズを祝福しました。わざわざ異邦人の女を、というひねた見方もできましょうが、さしあたりそれを素直に受け止めておこうと思います。女たちの方は、男の子が産まれたときに、ナオミに声をかけます。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」ここも素直に受け止めましょう。
 
ただ、近所の女たちが子に名をつけているというのは少し気になります。父親のボアズではなかったということが不思議です。よく見ると「主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ」と書いてあります。もちろん、ボアズが父親として産んだことには違いありませんが、なんとなしに、イエスの誕生をキリスト者に思い起こさせるような表現ではないでしょうか。そのオベドという名は、響きとしては「(神に仕える)しもべ」「礼拝者」のような意味であるという説明を見ました。もちろんキリスト者はこのオベドの子がエッサイ、エッサイの子にダビデが現れるということへと急ぎたくなりますが、急ぎついでに、このしもべの姿の中に、イエス・キリストまで重ねていくのは急ぎすぎでしょうか。
 
ところで、「ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた」ということになっており、「近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って」います。産んだのはルツです。ルツとナオミは血のつながりはありません。ナオミがこの子と関係があるとすれば、家系という人のルールに基づくものだけであって、血縁関係はないことになります。ナオミからすれば血のつながりがない子なのですが、そこに祝福が与えられています。ユダヤ人は女系であるという声もありますが、それにしてもナオミはやはり関係がありません。自分の子を産んでこそ女としての価値が認められたという時代のことをとやかく言うことはしますまい。ナオミとて、二人の男の子を産んだのですから、その点からして不幸ではなかったのですが、結局民族が増えることに貢献はできませんでした。ナオミは、そばに仕えることを是としたルツをいわば操って、家系を絶やさぬ子を産ませたことになります。家の名が続いていくことが祝福であったとしか考えられないのです。
 
この「ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた」姿には、めんどりが雛を抱くような構図を思い出す方もいるでしょう。イエスがエルサレムを見て感傷に浸ったような場面です。子を産む役割を果たしたルツはひとまずそれで終わりで、あくまでもこの物語はナオミが導いているような印象を最後まで与えます。けれども、ナオミは、あのマタイによる福音書のイエスの系図には登場しません。当然です。そこには異邦人の女として曰くつきのルツの名が刻まれています。異邦人の名が救い主の系図に残され、家系を絶やさぬことを喜んだユダヤ人のナオミはそこに名を連ねることはできませんでした。救い主イエスは、ユダヤ人のみのメシアではなく、世界中の人々の救い主であることを示しているとも言えるでしょう。ですが、そのルツを操った、というと語弊がありますし、唆した、といっても具合が悪いのですが、ナオミの存在は、自分をマラ(苦い)と呼べと俯いたどん底の状態を越えて、ナオミというその名が意味する「快い」を以て、この物語全体を覆うことになったのではないかという気がしてなりません。私たちもまた、自分の名は栄誉の中に刻まれ輝くようなことがなかったとしても、神の計画の要としての役割を果たすことができる慰めを受けます。目立った牧師や伝道者が偉いのではなく、名も知られぬ一信徒が神に用いられている光景。だから私たちは、知恵を惜しんではならず、努力を絶やしてはならないと思うのです。
 
人の目で見て評価することより、もっと大きなことが起こる。神の計画はひとには計算できない。私たちの望みが失せるときも、知恵をもって見張り、機会があれば動く。ナオミは困難に遭いながらも、そして自らを不幸だと嘆きながらも、その都度ベストを得ようと動いてきました。イエスの生涯も少しそのイメージと関連します。隅のかしら石は捨てられたが、救いの基礎となりました。イエスは殺されましたが、いのちの主となりました。逆転と軽くいうと味気ないのですが、ひとの思いを超えた結果がもたらされています。ナオミが特別に信仰深かったのか、と振り返っても、必ずしもそうとは思えません。いじけてもいたし、途中からは狡知に振る舞っており、非常に人間くさい面を見せています。ただ、ひとをよく見ていたとは言えるように思います。ルツの真意も、一目も見ることのないボアズの心理も、ナオミはよく考えて見抜いていたのです。それがある種の預言をしたことの前提でした。神の計画は人がどうであれ成就しますが、人の知恵と祈りも、その計画の流れに運ばれていくものでしょう。自らの名を残すよりももっと大きなことを、ナオミは果たしたと言えるのかもしれません。そして現に、この物語を通して、ナオミの名は永遠に刻まれることとなったのです。



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