【聖書の基本】女性たち? 婦人たち? それとも妻たち?

2019年9月29日

婦人たちは、教会では黙っていなさい。(コリント一14:34)
 
けっこうショッキングな発言ですが、この主語の部分の語の訳が、手許で調べられる邦訳だけを見ても、なかなかすごい。
 
新改訳2017では「女の人たち」、そして欄外に別の訳として「妻たち」が挙げられています。元の新改訳では「妻たち」が本文でした。聖書協会共同訳と文語訳、田川訳では「女」、岩波訳では「女性たち」、フランシスコ会訳は「女性」、新共同訳と口語訳、前田訳は「婦人たち」、塚本訳とギャロット訳は「婦人」、永井訳は「婦」と、単数複数の区別をはじめ、実に様々なバリエーションがあります。
 
もちろん、どの訳もありうるわけですし、ここでは自分の夫という言い方がありますから実質妻の立場であることがはっきりしており、「妻」なり「婦人」なりの言い方がより限定した言い方であるのかもしれません。「そもそも女性は……」のようなふうではないのかもしれませんし、しかしまた子どもたる女性はともかく、いわゆる「やもめ」としての独身女性は、パウロの後の時代の問題かもしれませんが、かなり厄介な存在であったようにも見受けられます。
 
これは昔の話だ、と片付けるわけにもゆきません。日本の教会で、女性が牧師なり司祭なりになることができる教派は実は限られており、それも「聖書に基づいて……」と結論されており、あちこちで議論が起こっていますが、それほど変わる様子もありません。ここで開かれたパウロの手紙の中にある言葉も、それに一役買っていると思われます。
 
また、いわゆる#MeTooの問題やハラスメントの問題の数々は、キリスト教国でも深刻であることが現在明らかになっています。女性の賃金格差の問題は解決していないでしょう。セクハラが横行していて、いやがらせをしているという意識すらもてない男性社会が一掃されていると言えるでしょうか。政治家の中で取り沙汰されるものは、私たちの社会にも当然蔓延しているはずです。昔の不条理な時代を私たちは乗り越えたと自負していますが、ほんとうにかつての時代から私たちは、格段によくなったのでしょうか。歴史の中の奴隷制度は悪だったと非難している私たちが、企業の中で奴隷的に扱われていることに気づくことはないでしょうか。日本を含め世界各地に拡げて考えると、古代の女性の扱いが過去のものとなったようには到底思えません。そういう意識で対処しないといけないと考えます。欧米ですら、女性が参政権(投票の権利)が与えられてから百年を数えるに過ぎないという中で、古代の思想を軽く見るようなことができるはずがないのです。そして、聖パウロがそのような差別的な見方をしていた、と鬼の首を取ったように指摘する私たちが、それを克服したつもりになっているとすれば、自分のしていることが分からないでいる、という事態のただ中にあるとは、言えないでしょうか。
 
ところで、岩波書店の、いわゆる岩波訳において、この箇所を訳した青野太潮氏は、パウロ研究については日本での最先端をリードしてこられ、人の声に左右されず聖書にサシで向き合う歩みを続けました。丁寧な注釈も入れていますが、その中で、特別な「補注」として、この「女性たちへの沈黙命令」についても、かなりの量の解説をしています。それは、この部分がパウロ本人の手によるものであるか、後の挿入であるかという議論がしばしばなされため、それに対する見解を示したというものでした。著作権の問題もあるでしょうが、このクローズドなフィールドでのみということで、学びのためにも、ここにその説明を引用させて戴こうと思います。(なお本文では句読点に「,」「.」が使われていますが、ここでは「、」「。」で通常の文のように示しています。また、強調のための圏点(傍点)は示しにくいので、【 】で囲んで表示することにしました。ご了承ください。)
 
 
女性たちへの沈黙命令

Tコリ14:33b-35の部分は、大略以下の理由からして、大きな蓋然性をもって、パウロ後の挿入であろうと思われる。@11:5では礼拝の中で女性が語ることが前提となっているので、それと矛盾する。Aここでの女性は結婚した女性であることが自明のこととされているが、7章におけるパウロの議論と矛盾する。Bしかしこの部分のような考え方は、パウロの名による書簡であるTテモ2:11-12,15とまったく一致する。単語も短い文章にしては共通するものが多い(女性、学ぶ、従順/従属する、許さない/許されていない、男性)。「律法」への言及(14:34)もTテモ2:13-14のアダムとエバへの言及と一致する。C直前の「黙りなさい」(28,30節)や「従属する」(32節)が、この部分の中の「黙りなさい」や「服従しなさい」と単語の上でも共通するので、それらに触発されて挿入がなされた可能性がある。Dこの部分を飛ばして読むと、文脈はスムーズになる。Eこの部分を欠いている写本がったくないという事実も、現存する写本は最も古いものでも四世紀のものであること、したがって挿入が早い時期になされておれば(二世紀前半のマルキオンもそれを知っている)そうなるのも自然なことなので、決定的な反証にはならない。36節をも後代の挿入の中に入れる考え方もあるが、この「それとも……、それとも……」という言い方は、パウロに特徴的と言ってよいほど多くなされる(15回)のに対して、Tテモテ書、Uテモテ書、テトス書の牧会書簡中ではまったくなされないことを考えると、パウロの文章としてよいと思われる。実際、「神の言はあなたがた【から】……か」という言い方は、「神【から】」の「啓示」に基づくはずの「神の言」とは正反対の事態を言っているわけで、「神から」のものとしての「異言」を強調していたコリント人たちに対する、いかにもパウロらしい鋭い批判を含む疑問文になっていると言えよう。
 
 
聖書、とくに新約聖書では、写本という増刷の際に、目の前にあるテクストを修正したり書き換えたりした場合がよく見られ、また、欄外にメモをしたものが次の筆記者により本文に取れられるようなことがあることが分かっているため、そして発見されている写本の年代が様々であるために、いったいどの文がオリジナルまたはオリジナルに近いもので、どれが後に加えられたり削られたりしたものなのか、という研究がさかんに行われています。黙示録の最後(22:18-19)であれほど災いだと警告されているのに、です。尤も、この黙示録の箇所事態が、書き加えたものだ、と田川建三氏は指摘しており、いったいどうしたものか、とさえ思ってしまいそうです。また、同じ田川氏は、かのパウロの女性差別的な部分も、他人の挿入ではなく、パウロの言葉であってよい、と断じています。パウロを人間臭い中で捉え、女性差別と言われればまさにそれをしていたに違いないし、それでよいのだ、とするのです。パウロへの愛着からか、パウロをむしろ弁護する側に回る青野氏とはスタンスが違います。もちろん、文献批判の立場としては、どちらもそれなりの論拠をもっているわけで、決定的にどちらかしかありえないとするものでもないものですから、このような論争が起こっているわけです。結局は受け取る一人ひとりがどう受け取るか、というあたりに一つの結論が出ることになるのでしょうが、学問的にはそれだけで済むものではないのでしょう。なかなか大変です。
 
このようなことは瑣末なようですが、大きな問題を含んでいます。パウロその人がこのような考え方を示していたのか、それとも別の人であるのか、によって、他のパウロ書簡などにおいても、パウロの人物像とその思想の捉え方が違ってくるのです。また、そもそも聖書を神の言葉として受け止める立場からしても、どの表現を以て神の言葉とするのか、ということになると、切実ということを超えて、命に関わる問題とさえなりかねません。
 
こうしたことのために、学者・研究者たちは、なかなかひとが取り組めない問題について、苦労して調べ、考え、また意見を戦わせています。その一人、日本新約学会の会長を務めた青野先生に、このたび学会員から『青野太潮先生献呈論文集 イエスから初期キリスト教へ 新約思想とその展開』が編まれ、贈呈されました。ご自身の考えを譲ることはありませんが、ひとの考えを懐広く受け容れることがなければこれだけの役割を果たすことができず、また人望を集めることもないでしょう。その説教による指摘を鵜呑みにする必要はありませんが、聴く側もそこから一人ひとり、自分はどう聖書を読むか、チャレンジを受けて、神と対話をするようでありたいと願っています。皆さんが、そのようでありますように。



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