品詞分解
2019年9月29日
業平の一途な恋が黒板に品詞分解されてゆく午後
俵万智さんがある国語教育に関する文章(『文學界2019年9月号』)の中で引用していた、宮崎での「牧水・短歌甲子園」の中の歌。詠み人・海老原愛さん。これをきっかけに、やがて『恋する伊勢物語』という本を著したのだそうです。
もちろん在原業平のことであり、伊勢物語なのかどうなのかは知りませんが、高校の授業で取り上げられたその歌、古典の授業で綿密な品詞分解を受けるのは、やむをえないところでしょう。歌っているのは、それだけの風景です。しかし、当然私たちはその背後にある詠み手の心を感じますね。これでいいのか。それは(その瞬間は)命を懸けた恋を詠んだ歌だったはずです。
国語の教材に取り上げられた文章は、えてしてそういう扱いを受けます。それがやがて試験に出るとなると、生徒のほうも余裕がありません。教えるほうはある意味で気楽なものですから、この詩はユーモアがあるね、とか、この文章には笑ってしまうね、とか平気で言いますが、生徒はくすりともしません。いや、そこで笑える雰囲気をつくる授業をするというのが、教師の側のひとつの腕前ということなのでしょうが、概してそういうものです。
イエスは新約聖書の中で幾度か泣いたり、憤ったりしています。しかし、一度も笑ったことがない、と言われます。だからなのかもしれませんが、他方、『イエスのユーモア』や『キリスト教と笑い』というような題も本も、見かけます。なんとかその行間に、おかしみを感じたい、あるいは感じられる、という指摘なのでしょう。らくだが針の間を通るなどは、笑わせようとしているのではないか、というような具合です。
聖書の教えというと、格式張った、堅苦しい、ありがたい教えであるという前提で信徒は向き合うことが多いでしょう。笑い飛ばしたり、ユーモアと呼んだりすることは不謹慎である、と。むしろ、嘲笑うというのは、イエスの奇蹟を信じない不信仰な輩の態度だと聖書に書かれてある、という思い込みがあるようにさえ思います。
それはまた、パウロ(など)の手紙もそうです。素直に詠めば、パウロは思いきったユーモアや特に皮肉めいたことは、よく吐いていると感じるのですが、それを至って真面目くさって、恭しく読んで受け取り理解するというのが通例ではないでしょうか。
そして、聖書はその原語の並び方や活用形、そしてしばしば時制が一つひとつ分解され、探究され、それを基に解釈されていきます。もちろんそれは信徒にとり喜ばしいことであり、日本語に訳されたものしか見ないときにとんでもない誤解をしてしまうということから避けさせてくれることもしばしばです。ある特徴あるグループは、日本語訳だけから受ける印象により、根本的な教義を独自に打ち立ててしまい、引き返せないところまでいってしまいました。原文にあたれば、全くそのような意味ではないということに誰も気づかないか、または上層部が押し隠していて、そのためたぶんいまも、その印象を与える訳であった口語訳聖書しか使えないはずです。すべての信徒が原語を読むわけにはゆきませんから、文法的な研究をしてくれる方々はほんとうにありがたいものです。
しかし、へたをすると、聖書の文を文法的に理解して、俺は聖書を正しく理解した、と豪語する声も、このSNSの時代にはよく見かけます。そこで冒頭の歌。聖書の言葉を、神からの一種の恋の歌であるかどうかはともかくとして、愛を伝え、人の思い上がりを戒め、善へ導こうとする方向性をもつもの、端的に言えば「命の書」であると捉えるならば、私たちが聖書に向き合うとき、そのような「午後」だけで終わることがないように、と私は願うのですが、如何でしょうか。