若い文筆家の皆さんへのエール

2019年9月23日

高校の文化祭があり、出かけました。我が子の出し物がもちろん一番の目当てでしたが、高校生諸君の発表なり活動なり、愉しむことにしました。その中で美術部や文芸部は、私の目するところでありました。若々しい表現をどうこう言うつもりはありませんが、美術部では、もう少し基礎デッサンを鍛えたらよいな、と思いました。発想は豊かな面があるし、よい素材をもっていると思いますから、画力、とくにデッサンにもっと時間をかけて、ふだんからとにかく描きまくることが望ましいと、素人目にも感じました。
 
文芸部は催しとしては参加しませんでしたが、同人誌のようなもの、文芸部誌というのでしょうか、それが置いてありましたので、持ち帰ることにしました。五冊ずつでもどうぞ、と言われましたが、そこまでする必要はありません。とりあえず数種、一冊ずつ戴きました。近年、というかもう18年も前ですが綿矢りささんが高校生にて文藝賞をとり、その2年後に芥川賞をとったなど、若い中でも突出した才能を発揮する人も現れており、それはスポーツ界でもそうなのでしょうが、のびのびと成長する世代を見るのは楽しみでもあります。そんな逸品があるかどうかはまた稀なことでもありましょうから、それほどの期待をもたず、しかし若い息吹を感じてみようとめくっていきました。
 
やはり絵の場合と同様に、面白い発想はあると思うのです。アダルト世代からは出てこないだろうと思われる世界が垣間見える。それがまた、新しい文学の現れのためのマグマのようでうれしく思います。若さ故、勢いで書く文芸がそこにあります。まだ語彙も豊富でないし、構成ができているとも思えません。しかしやはりデッサンと同様、表現力が伴いません。いや、それは仕方のないことです。応援しているのです。ここで表現力というのは、テクニックとか、華麗さとかいうことではありません。読者に伝わるかどうか、という、基本的な部分のことなのです。
 
ABCDEFGと出来事が流れる。その中でCとFを重視して結びつければ、犯人を当てることができる、たとえば推理小説はそのようになっているでしょう。そのため惑わすBDEの出来事があり、他の人を犯人と勘違いさせる。読者はこの惑わしを楽しむ、こういった構図です。けれども文芸作品はそのように書くのは普通適切ではありません。もちろん、ここを読んでほしいと作家が力をいれるところはところどころ、あるいは最初と最後などのように見出されます。たとえば今の例では、Fが作者の重視したことだったとします。しかし、それを感じさせるものが、AからEまでに何かしら流れているわけです。底流にずっと流れて空気を醸し出していたもの、もちろんそこにはある種の変化が見られて当然ですが、それでも何かしら一貫した何かがあって、読者は後からそれに気づいても構わないし、あるいはそれを無意識のうちに感じとりながらその物語を辿っていける、そんな場と時間を備えることが、作家のひとつの務めではないかと思うのです。その世界に引き込み、読者にその土地を歩かせ、その時間を共に過ごさせてくれる、そこに連れて行ってくれる、その魅力が物語の強みではないでしょうか。
 
しかし、それを隠すことが義務であるかのように、Fという大切なテーマと全然無関係な描写をBDEと詳細に描き読者には全然別のものを味わわせて、急にFなんだよ、と解決を図っても、これまで読ませられていたBDEはいったい何のためだったのか、と思わせるような手法は、推理小説ならアリでも、文芸作品、とくに短編では殆ど考えられないことなのです。もちろん、これまでもそういうのはあったかもしれないし、これからそういう文体や構成が流行するということもあるかもしれませんが、ごくごく短い作品の場合は、どこを切っても何かしら一筋の同じ木の一部なのだよと、後からでもいいから感じさせてくれる出来事や言葉が鏤められていないと、読者は落ち着きません。村上春樹がデビューした時には、そのようなチャラチャラしたものだと見られたかもしれませんが、それでも、全体に醸し出す一筋のものは確かにそこにあります。それを、文芸部誌に載せる数頁の作品の中で、無関係な惑わしのような描写がたくさんあって、宝探しのように作者の思惑を幾度も探しながら読み込まないとつながらないようなことがあるのは如何なものでしょう。
 
もしかすると、国語の授業で、実はここを読めばこれこれが分かる、といったような、謎解き風な読み方を提示され、それが文学だと思っているのかもしれません。しかし読者は忙しいのです。一度流れるように文章を辿ることで、いつの間にかその作者の思い描く世界を感じ、その中に引きこまれ、同じ景色を味わうという経験ができるように出来事を配置し、表現で誘いかけるようなふうでないと、作者の心を感じることはまず不可能です。その世界にさえ引き込むことに成功すれば、ささやかな表現の中に実は大切なことがこめられていても、読者は気づきます。しかしこの世界は何だろうというままに文章をたどっても、どこを探してよいのか分からないし、光っているものにも気づくことができません。
 
その視点を握る主人公が男性か女性か、年齢や立場はどうか、それに一言も触れずして、どんどん話が進行してしまうと、世界が分かりません。場面が描写されていないと、どこに立っているのか読者は分かりません。登場人物と場面というのは、物語の基本ですが、それを伝えないままにどんどん出来事が起こっていくというのは、読者には暗闇の中にいきなり突き落とされたような不安を感じさせるばかりです。
 
そう、書くほうは心の中にそれができているのです。そして事件を次々と起こしていくし、周囲を描写します。しかし、読者はその前提がありません。単純なことですが、「読者の身になって表現する」ということが、どうやら不十分なのです。
 
これを改善するには、互いに批評するとよいのです。互いに読み合って、批評し合う。そのとき、「これは誰?」とか「これはどこで起こったの?」とか、読んで分からないところが指摘されるはずです。尋ねられて作者が答えて、なるほど、それなら分かる、といった返事があるようなら、それを書いていないほうが悪いのです。それを書かないといけないのです。
 
一読して相手に意味が伝わる。これが小説の基本です。もちろんその読者に、作者の思惑通りに伝わるかどうかは分からないし、作者にも気づかなかったようなことが伝わっていくということは当然ありうることと考えます。学術論文ならばその通りに伝わらないとまずいでしょうが、文学は文芸ともいい、芸術です。また人生そのものにも拘わります。一度成立した作品は、作者の手を離れた作品となりますから、それを読者がどう受け取ろうと自由です。しかしです。作者がこれを伝えたいと思うものがあるのなら、それを知りたいならばよくよく読み込んで何度も読み直してみな、というような態度であってはいけないわけです。解釈するために様々な意味を調べてようやく納得できるというようなことを、この小説で描きたかったのです、などと言うことはできないのです。
 
独り善がりでこれは傑作だなどと自惚れてにやにやしている様子が気持ち悪いと思ったら、読者の意見を求めてみましょう。身近な理解者に読んでもらいましょう。そこでの感想を、読者一般から出てくる疑問や感想だと理解し、突かれたところを直すように努めましょう。そうして少しでも、読む方の立場からの視点というものを理解し、次からはまたそれを意識した角度から、書いてみるようにしましょう。こうした感覚が、恐らく批評し合うことにより磨かれていくのではないかと思われてならないのです。
 
まだ言葉で十分言い尽くせないでもどかしく思うものが、皆さんの中にあるかと思います。それを確かに感じます。よい素材がそこにあり、楽しませてくれる発想が、いつか噴きださんとするマグマの如くにむずむずしているのを感じます。だからこそなお、読者をそこへ招き、楽しんでもらえるように配備していくことを怠ってほしくないと思いました。こうした意味では、純文学であろうがすべてがエンターテインメントです。読者に伝わることからまず意識し始めてみてはどうでしょう。
 
などと、偉そうなことを言う私は、いったい何者なのでしょうね。



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