【メッセージ】口先だけでも

2019年9月22日

(ルツ3:1-18)

しゅうとめのナオミが言った。「わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。」(ルツ3:1)
 
ナオミは探してきたと言います。ルツが幸せになる落ち着き先を探した、と。ここには行動するナオミの姿が見られないこともありません。けれども、よく見ていくと、ナオミはルツにああしろこうしろと命じ、行動させているばかりで、自分としてはそれ以上の行動を起こすことがありません。今日はこのナオミの動きに注目して聖書のルツ記の、ヤマ場へ向かう決定的な場面を味わってみようと思います。
 
ナオミは、食い下がるルツを連れて故郷ベツレヘムへ戻ってきました。決して温かな歓迎ではなかったし、それは覚悟していました。男手がない生活は、生きていくためにまず落ち穂拾いから取りかかりました。ナオミは年齢のせいだか分かりませんが、拾いに出て行くことはありません。ルツが働きます。その意味でも、ナオミはルツを連れて帰って実は正解だったはずです。
 
そのルツが、思いのほかたくさんの落ち穂を持ち帰ったので、ルツにどこでそれを得たのかと尋ねると、ボアズという名を口にしました。ナオミはそれが自分たちを見受けする権利のある一人であることを知っていました。最初にそのことをルツに返していますから、この落ち着き先云々という説明のときに、わざわざ親戚であるかどうかを調べに行ったというわけではないようです。親戚であることはすでに分かっていた。ここでナオミがルツに知らせたのは、今晩麦打ち場で大麦を篩い分けるということでした。つまり、これはお近づきになれる大きなチャンスであると睨んだということです。ルツとボアズを結びつけようとするナオミの魂胆がはっきりしていたということになります。
 
女としての身だしなみを調えて、その麦打ち場に行くように。そしてボアズの衣の裾で身を覆って横になりなさい、そう命じました。その後のことはボアズ顔し得てくれるはずだから、と。なんとも大胆な計画です。ルツは驚いたに違いありません。ルツが直ちに「言われるとおりにいたします」と返答したのは、姑に服従するという意味かもしれませんが、驚きの計画に抵抗しなかったルツも、事の次第を理解していたと見なすほうが自然であるように思われます。ボアズの心を奪おうというのでしょう。しかしそんなにうまくいくものでしょうか。ナオミはもしかすると、ボアズの側がルツをどう見たかについて、何らかの調査をしたのかもしれません。ボアズの今夜の行動を知っているということは、ボアズの畑で働いている者からの情報である可能性が高くなります。畑地に出向き、労働者から、ルツが来たときのボアズの様子を事細かに尋ねたのではないかと思われます。ボアズも気がある、との確信を得て、ナオミはルツに、この作戦を耳打ちしたことになるでしょうか。
 
ルツは、姑に言われたとおりにします。なんとも絵になるシーンですが、ボアズはルツを見出し、ルツは自分がボアズを「家を絶やさぬ責任のある方」であるという点を告白します。ボアズは直ちに事の次第を理解したのか、ルツに主の祝福をと口にします。まだルツは若かったのでしょう。富でなく若い男を追いかけるであろう女とは訳が違うと告げ、ルツのこの迫りは「真心」であると評します。いったい「真心」とは何でしょう。嘘のない心ということでしょうか。「このはしためを覆ってください」という願いと、家の問題とが重なり合うところには、答えはひとつしかないはずなのですが、このボアズ自身、若者ではないことがはっきりしています。しかし農地を持ち多くの労働者を従える大農主でもあるということを示しています。
 
「きっと、あなたが言うとおりにします」とは、家を絶やさぬ責任ということにほかなりません。しかもボアズが言うには、ベツレヘムのおもだった人が皆、ルツが立派な女であることをよく知っている、とまで言うのです。ベツレヘムを逃げ出して、戻ってきたナオミを必ずしも歓迎しなかったように見受けられましたが、モアブという異邦の民のルツに対しては、村人は評価していたということでしょうか。それとも、ある意味でこれは嘘で、ボアズ個人の思いそのもののことを言っているだけなのでしょうか。そこは文学的に読者が評価するしかないような気もします。
 
驚くべきことは、ここでボアズが、「確かにわたしも家を絶やさぬ責任のある人間だ」と自覚していることと、しかしその順序からいくともうひとつ優先順位の高い人がいるという点まで知っている、あるいは調べている、ということです。ボアズはいったい、どういう心境であったのか、まるで王子さまを期待する女性漫画誌の物語のように、事はトントン拍子に進んで行きます。
 
今夜はここで過ごせ。暗がりに帰宅するのは危険極まりないにしても、いったいどうなるのか、わくわくします。明日、ボアズは事を決すると宣言します。朝まで休みなさいという指示には嘘はなかったと思われますが、なんともドラマチックな展開です。しかし未明に帰らないと、また問題が起こりかねません。ボアズもこれが人に知られてはまずいという判断でした。帰るときには、羽織っていた肩掛けを差し出して、そこに大麦を六杯量って、つまり何かしらきちんとした手続きをそれなりに果たして、ルツに背負わせました。ボアズはそこから町に戻って行っていますが、それはそこが町ではなく農場だったからです。ボアズは朝から直ちに動くことにしたのです。もし責任のある第一優先者がルツを引き受けるというのなら、それはそれで従うしかないのだが、主はきっとそうはなさらず、自分のところにルツが渡されることを確信していることをボアズは説明していました。揺るがぬ信頼で主のなすことを受け止めていたというわけです。
 
ルツはナオミのところに戻ります。ナオミはこの朝早くにルツを待ち焦がれていたと思われます。「どうでしたか」と呼びかけるナオミがルツに「娘よ」と言うのは当然であるにしても、ボアズまでもが「わたしの娘よ」と二度も呼びかけるにまで、ルツはもう娘であると見なされていたようにも見受けられます。もちろん、ユダヤにおいて自然な呼びかけであったとしても、私たちはナオミとボアズが同じ目線でルツを見ていたと考えたいものです。
 
ルツは落ち着きがなかったはずですが、ナオミは「じっとしていなさい」と命じます。ボアズはもう今日中に決着をつける行動に出るはずですから、と見通した見解を述べています。こうしてナオミは、ひたすら陰で操る形になり、情報を集めてはルツに命じて大胆な行動を起こすことに成功しました。ナオミは、言うなれば預言者のように、言葉を以て事の実現に手を貸したことになります。自分で何かをしたというよりは、主役を動かして、そうなるように仕向けたというわけです。
 
私たちはどうしても、この場面でボアズの反応に目を奪われます。ルツはナオミの言いなりになっているだけですが、やはりボアズと二人できっちりと思いを知らせることをし、ちょっとしたロマンスの名場面を感じさせるものとして、読者の心を惹きこみます。しかし、見方によっては、ここで二人はまるで人形のように、つまり「お約束」に従ったヒーローとヒロインの動きをしているにほかならず、これを、言葉は悪いですが唆しているナオミのほうに、物語の展開の主導権があることは明らかです。それでいて、ナオミはこっそり調査するよりほかに目立った行動をぶつけているわけではありません。
 
私たちは、主が指す将棋盤の上のコマのように、主の指す手により前進したり後退したりしながら、主の計画の一部を担いながらそこに置かれています。時に主から声を聞き、それに従いますと応えますが、その方針で貫き通せば主の計画はそのままに遂行されたかもしれません。もしかするとそちらには進みたくありません、と主の作戦を妨げる動きをしていないだろうか、と思うことがしばしばあります。確かに私はロボットではありませんから、何も考えずにただ動かされている駒というふうにはいかないでしょう。
 
この情景の中で、ナオミは駒になっているというよりは、主の作戦計画に参与しているかのようにも見えます。もちろん人間に過ぎませんから、主と同じではありません。しかしルツを動かし、ボアズも当然こうなると見越しての「唆し」であったわけです。それは、単にナオミの思惑であったとは取りたくない気がします。ナオミもまた、神の計画に大いに寄与したのだと考えてみたい。そうなると、このナオミの預言的振る舞いにはどういう意味があったのか、また私たちもこのような役割を果たす可能性があるとすると、どういう点を心得ておくとよいのでしょうか。救われたクリスチャンとして、この世を動かす力と権限を、何かしら授かっていると理解すると、私たちもまたナオミのようなことができるし、またしなければならないかもしれないと思うのです。
 
ナオミは、ルツに思い切った行動に出るように仕向けました。これは確かです。もしルツがボアズに接近しなければ、二人の出会いはなかったかもしれないし、結局ダビデが生まれてこなかったということまで見越しておくならば、ナオミは絶大な契機を与えたことになります。となれば、ナオミは、「ストーリーの決定的な転換部を担った」ということになります。あるいは、「方向転換をなさしめた」という言い方もできるでしょうか。
 
私たちはかつて、神の前に方向転回を果たしました。自分でしたというよりは、そうされたと言いたいところですが、とにかく方向を誤っていた「罪むというところから、向きを変えるという意味の「悔い改め」を以て、神のほうを向くということで、恵みを受けたという構図を外すことはできません。そのときにも、きっとナオミがいたのでしょう。祈り手として、また何かしら促す作用をした点で、それともまた何かしら書物の中から呼びかけて、私たちを教会へ向かわせたり、聖書に目を向けるように仕向けたりした、ナオミがいたのでしょう。そうしていま、クリスチャンとして私たちはもまた、誰かのナオミになることができることを知るのです。何かを特別にしなくてもいい。呼びかけるだけでいい。相談に乗ったり、なにげない言葉を発したりするだけでも構わない。塩の利いた言葉が、私たちから零れることがありうる。自分は不幸だと嘆くナオミの中からもそれが生まれたのですから、私たちがどのようであったにしても、自分をどのような存在として嘆いていたとしても、誰かを方向転換させるような言葉を告げることが、きっとできるのだと教えられます。
 
「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(ヨハネ一3:18)との言葉に怯む必要はありません。口先が要らないとはどこにも言っていません。口先もまた、必要なのです。誰かを助けるための言葉を発し続けることは可能であるし、またそれをすべきだと促されているように思わされます。否、もしかすると、口先だけでも、何かを言うように、と背中を押されているのかもしれません。



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