不正な裁判官

2019年9月19日

不正な裁判官についての譬えがあります。ルカによる福音書です。
 
18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
18:6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
 

不正という言葉はイエスがまとめて最後に言っているだけですが、要するにここでこの裁判官は、正しい人間だとは考えられていません。それで、ここから説教がなされるときには、決まって、この裁判官が神を表しているようには思われない、というふうに説明されます。確かにそうだと私も長いこと思っていました。
 
けれども、これこそ神ではないか、という気が最近してきました。いや、話の結論からすると、神に向けて叫び求め続ける者の言うことを神は聞き入れて行動に移すであろうというわけですから、構図としてはこの裁判官が神の位置にいることは誰にも分かっているのです。しかし、喩えというものはあらゆる事柄を適切に対応させているものとしてこねくりまわすような解釈が流行った歴史もありましたが、どうやらそうではないという見解が私たちの共通理解となっています。ですから、ここでの登場人物や事態についても、一つひとつを説明し尽くそうと躍起になる必要はないと考えられます。
 
そこで、注目するのですが、この喩えの中でこの裁判官が「神を畏れず人を人とも思わない」という点が非常に強調されています。神が神を畏れるというのは文としても不自然です。神が人を人とも思わないのは、深く考えてもよいですし、そうでなくても、何かしら神がそう思わないというのであればそうかもしれないと考えられそうな事態です。つまり「人」という言葉の定義がなされていない以上、なんとでも捉えられるということです。神が主体であってもおかしくはないだろう、という程度にお考えください。
 
そして、神はイエスの死により人の罪を過ぎ越すというような、律法からすればまさに「不正な」ことをしたのではなかったでしょうか。イエスの救いとは、言うなれば不正な方法であったのではないか、と考えるのは変でしょうか。
 
また、人はえてして、神を不正だと非難しているのではないでしょうか。神よどうしてこのようなことが世に起こるのでしょう、とヨブならずとも、私たちは日ごろ神に不満をぶつけているのではないでしょうか。何よりも私たち自身が、神を不正だといつも糾弾しているのだとすれば、ここでイエスがたいそう皮肉な言い方で強調していると見ることも可能なのではないかと思うのです。
 
私たちはそんな不正を犯しています。その自分の小ささと反逆性にも関わらず、神はなおも不正な手段で私たちの罪を無効にしました。こうしたことへ目を向ける、小さな黙想でありました。



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