教会が不信を振りまかないために

2019年9月15日

教会は何をもたらすか、という問いに対する答えはいくつもあるでしょうが、信仰する人が増えるように伝えること、それから信仰をすでにもっている人の信仰を堅くすること、ここにひとつの焦点があることは確かでしょう。
 
神への「信仰」という言葉は、「信頼」という言葉と何も変わりません。他方またこの語には、「真実」という意味も含まれているといいます。最新の邦訳聖書では、従来、私たちがイエス・キリストを「信仰する」というところを、イエス・キリストが示す「真実」というような語で訳しています。イエス・キリストが私たちを信頼して、誠実を尽くすというようなニュアンスではないかと思います。
 
だのに、教会自らが真実を尽くさず、信頼をなくすようなことを繰り返し、一向にに改善しないというのはどういうわけでしょう。人間のすることだから間違いがあって当然という構え方でいるのか、そもそもそれが信頼を失わせることだということを認めないのか、理由は分かりませんけれども。
 
ふだんと変更した礼拝開始時刻を、ふだんの時刻のまま礼拝時刻を誤って印刷したものを画像として公表しているのを見て、愕然としました。そもそも、礼拝の場所や時刻をころころと変えるということがおかしいと私は思いますし、それは少なくと一般の人に対してもオープンな礼拝ではなく、仲間内だけの秘密の集会ということの表明にしか見えません。人間の都合で時刻を変更する、極めて人間臭い営みのように思えてなりません。礼拝は誰が中心なのでしょう。誰に何を献げるひとときなのでしょう。
 
戻ります。それで時刻が変更されているはずなのに、いつもの調子で週報のプログラムを印刷し、それを画像として公表します。また、それをそのままシェアして仲間が情報を広めているのですが、時刻が変更されていることは分かっているはずなのに、何のチェックもせずにそのまま引用しているという具合です。これに気づいて指摘しますと、本文のほうで、印刷はタイプミスで本当は……と小さな文字で説明してありました。画像はそのままです。これで情報を正しく伝えたつもりでしょうか。ひとはぱっと画像を見るでしょう。すると、知らされていた時刻より30分早くなっているぞ、困った、と焦らないでしょうか。誤った日時のポスターをそのまま貼って、欄外に小さく日時が違います、と説明を書くようなのは、詐欺的な方法と同じではないでしょうか。
 
礼拝に行こうとする信徒は、暇な中でのんびり来ているような人ばかりではありません。なんとかその時間帯を勝ち取ろうと、前々から職場に話をして、何時から何時までの間だけ仕事を抜けさせてください、と頭を下げてお願いをし、会社のスケジュールを組み直してもらうような人もいます(私があるときそうでした)。どうしてもどこそこに行ってひとと会わないといけないので何時の列車に乗るためにと計画して、それでもぎりぎり長く礼拝にいられるように、と出席してくるような人もいます。突然時刻が変わったような知らせを見ると、動転してしまいますし、この人たちの礼拝出席のための信仰的努力は何だったというのでしょう。
 
一般社会の予定は、ずいぶん前から決められることが多々あります。そのとき、礼拝に出るためにはこの時間帯だったら、といつも考えながらやりくりして同意する、というようなこともあるわけです。教会が、今度の礼拝は何時からにします、といわば突然のように変更するのは、こうした信徒の努力を無にしてしまいかねません。教会は礼拝の時刻を人間的な利用でいじるような場所ではないと私は確信しています。はっきり言いますが、神を礼拝したいと思う私からすれば、間違っています。
 
実は信徒ですら、間違っていつもの時刻に来て遅れたことになった、という事例があります。まして、一般の方や学生が教会を訪ねてきたとなると、もうだいぶ終わったころにやってきて、(学校の礼拝出席)レポートもまとめられない、というようなことになると、時間変更が害を与えたということになりはしないでしょうか。いや、Facebookで告知している、などと言う問題ではありません。いったいFacebookを誰が見るというのでしょう。それはごくごく狭い社会の内輪のものです。事実上、告知しているのは、毎週教会に来ている内輪へだけでしかありません。
 
間違うのは印刷物だけではありません。先般は、宣伝する私に対して送られてきた「説教題」が間違っていました。そのまま私はアピール素材をつくり、世界に公表しました。奇妙な題だと思いましたので、きっと何か訳があるとヘブル語辞典で調べて、ものすごく深い意味のことを言おうとしているのかもしれない、とある意味で期待しながら、その間違った説教題を知らせました。すると当日礼拝が始まると、別の題が出ています。後で、私に送られてきたメールを見せましたが、それは自分が書いたのか、と言われました。私は、誤りを恐れて、説教題を情報として送り出すときには、基本的にコピー・ペーストしかしません。それで、「、」や「。」まで、送られてきたそのままの文字にしなければと細心の注意を払い、情報化します。聖書の漢字表現がひらがなになっていても、それは説教者の意図があると理解し、勝手に修正などはしません。さすがに聖書箇所がおかしいと思ったときだけ打診はします。それで箇所を直してもらったことはありました。
 
さすがに説教題の誤りはこのときだけでしたが、案内の日時、曜日などが間違っていることは何度もありました。驚いたほうがよいのかどうか分かりませんが、この時間帯の間違いを指摘されて修正したその日にアップした、その日の礼拝の内容を伝える記事で、またもや日付を一週間間違って出していました。よほど、日時というものに関心がないかのようです。いったい、説教題を誤って伝えるというような教会は、何を伝えようとしているのでしょう。、神さまの言葉を信じましょう、と訴えて、説得力があるのでしょうか。日時を幾度も間違えるような教会が、信仰はすばらしい、と伝えて、信頼してもらえるつもりなのでしょうか。
 
そもそも私も名前を最初間違えられて、不愉快な思いをしたことがあります。しかも、たんに間違えたことそのものを責めは言わなかったつもりですが、さんざんそれはこだわりだと非難を受けたあげく、ついに私は、信じられないような罵声を浴びる羽目になりました。すべて、「自分に甘い」体質の故だと思います。「人間だから完全じゃない、誤ることがあるのは当然だ」という命題は、正しいと思います。しかし、この言葉は、誤りの故に迷惑を被った側が許しの言葉として発する言葉ではあっても、誤った側が開き直って言うことはできない言葉だと私は考えます。「玄関に鍵をかけないから泥棒に入られるのだ」というのは本当だと思いますが、この言葉を、入った泥棒本人が言ったとしたら、どうでしょう。言葉は、それを誰が言うのかという点で、使うべきルールがあります。日時やひとの名前を間違えてそれで平気でいるならば、また同じように間違い続けることでしょう。結果的にこれは一向に改善されません。少しでも改善の意思を示し、ひとりが間違えても、チェック機能をはたらかせることで、誤ったものが拡散するようにすれば、だいぶ防ぐことが可能です。テストの採点作業はこのようにして、誤りを防いでいます。これで殆ど誤りはゼロになります。しかし、ノーチェックで、他人の書いた書類を、その人を信じることがさも美徳であるかのように、大丈夫だろうと安心してどんどん拡散していく態度であるならば、結局同類でしかないでしょう。日時やひとの名前を繰り返し間違い続ける教会が伝える「信仰」が「信頼」されるかどうか、はたして「真実」であるのかどうか、よく考えてみましょう。
 
しかし、私の日々のうだうだとした文章には、間違いがないかというと、そんなことはありません。私もまた甘いのです。しかし、私は言い訳はしません。私はいくつかの理由があって、言い訳はしたくないという気持ちを先立たせるようにしています。「自分に甘い」ひとは、何かあるとすぐに言い訳から言い始めます。とにかくまず言い訳から入る。これがその人の特徴です。相手のクリスチャンは、苦しい思いを懐きつつも、赦せという聖書の言葉を噛みしめながらようやく許したのであるにしても、この人は「ごめんなさいね」と笑って済ませ、自分のしたことが相手に生涯忘れられないような疵を残してしまったというようなことにも気づくはずもなく、また明るく歩き始めるのです。自分で自分を許し、おまえも許せと笑う。これではいつまでたっても誤りは直りません。そして、不信感だけを増幅させていくことになります。
 
一般企業であれば、日時の表示に誤りのある文書は、分かった時点ですべて廃棄し、再配付します。私のところでは日常的にそうしています。しかしそれは、コスト的にも多大な損失となります。ですから、ふだんからチェックは入念にします。そうして、コストのためにも、そうした情報の点で誤りがひとつもない文書を作成しています。それが企業が信頼される理由です。日時やひとの名前を幾度も間違えるような企業は生き延びることができません。
 
確かに聖書は「許し」の重要さを教えてくれます。しかし「許し」を教える教会が、まず自分を許していることばかりでいる点が目立ちます。そして許せないのが、異なる教義をもつ他の教派や、教会の中で弱さの故に失敗をした信徒。冗談じゃない。こちらこそ七の七十倍でも許すのではありませんか。
 
誤った情報を流すことに対して無頓着であるということは、その情報を大切だと考えていないということです。自分の大切な作品の題は、一点一画まで間違わないように伝えるはずでしょう。カタカナで申し出たのにひらがなで発表されていて、まぁいいか、と済ませられるはずがありません。自分の子どもの名前を役所に届けるときには、いい加減に書きはしないでしょう。ひとの名前を間違えて平気なのは、そのひとを大切にしていないからです。少なくともそのように言われても、仕方がないでしょう。それともその上さらに「自分に甘い」言い訳から先に返答するのでしょうか。教会が「愛」を教えるところであるというのに、相手よりもまず自分を大切にし、ひとを軽くしか扱わないならば、その内実が暴露されてしまいます。口先だけでいくら愛を語っても、神はその真実をご存じです。
 
私は文章に多分に誤りや欠陥があります。推敲に時間をかけられないためです(推敲をしないという意味ではありません)。私の知るある先生は、その点、私なんかその足元にも及ばないほど、一つひとつの言葉を大切にしています。恐らく推敲に推敲を重ねているものと思われます。ものを述べるときにも慎重に、少しでも誤解を避けるように配慮しながら説明をするし、もしどこかを突かれても、それに対する弁明なり真意なりが、すぐに返せるように考えられた文章を綴ります。その文章のどこを切っても血が飛び出してきそうな、いのちの通った、そして責任ある言葉だと分かります。言葉に対する責任という点でも、尊敬するしかありません。それでいて、自分の考えがすべてではないと言い、反対する意見についてもそれをその人が述べることについて敬意を以て向き合うという態度でいるのが不思議ですが、考えてみれば、精一杯信頼に値しようと努めているからこそ、ほかの人を信頼しているようにも思えます。自分に厳しい人だけが、他人に寛容であるのだと言われることがありますが、全くそうだと感服します。この姿勢の中に、私は「愛」を感じます。
 
だから私も、何も一方的に誰それを糾弾したり、非難したりしているわけではありません。ただ、教会が誤った情報を流すことについて、自分に甘くせず、真剣に向き合って戴きたい、そうして実際誤りをなくそうと真摯に立ち向かってほしいと願うばかりです。他人の行動を制約しかねない日時や場所についての情報、そしてお名前については、誤ったことを謝りようがないのだということを噛みしめたいものです。もちろん、私もやらかしているとは思いますが、その時には少なくとも弁解はしないつもりです。



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