新しい教会へ

2019年9月13日

先週も、今週も、なんとなく同じように礼拝が行われ、同じように歌って祈って説教を聞いて、少し安心して帰宅する。この繰り返しが、クリスチャンのひとつの平和なのでしょう。特別なトラブルもなく、穏やかな教会生活が続いていれば、高齢化だの少子化だの囁かれたとしても、さしあたりまわりの風景も変わらないし、いいじゃない、という気持ちに包まれます。
 
しかし何らかの理由で、牧師がいなくなるというような事態になった瞬間、信徒たちは大騒ぎとなります。落ち着いて事を運ぶ教会もあるでしょうが、何かしらの不安は隠せません。新しい牧師が決まるだろうか、という不安です。
 
教会は牧師の所有物ではないのですが、牧師によりカラーが決まります。牧師を招くことを招聘とよく言いますが、一旦招聘してしまうと、少しばかり合わないなどという感覚でやり直すことは、そう簡単にはいきません。結婚ほどではないにせよ、やはり大きな決断と決意とによりなされるべき事業だということになります。
 
まぁこれまでもちゃんとやってきた人のようだし、説教のテープもひとつもらったが、ちゃんと話ができるようだし、いいんじゃないか。とにかく無牧(牧師がいなくなること)を避けるためにも、ここに来ていいと仰っているんだから、受け容れましょう――ありがちな展開はこういう感じでしょうか。よほど誰の目にも明らかな失態や問題を抱える人でないかぎり、「この人の説教は適切でない」というような偉そうなことが、信徒の中からはなかなか言えないものでしょう。
 
企業で言えば社長交代のようなもの、プロ野球なら監督が替わる、あるいは球団経営者が替わる、そのくらいの変化があるのでしょうが、教会では「説教」と「牧会」という、魂や霊といった領域に触れる問題を含みますので、どんな人物であるのか、いわばお見合いだけですっかり任せてよいのかどうか、分からない面が多すぎます。実際来て教会の日常が始まってから、こんなはずじゃなかった、と思えるような事態にどうしても遭遇してしまいます。それをまた乗り越えるという楽観的な見方も必要ですが、中には人物的・人格的に問題が多すぎる場合もありえます。その牧師と信徒と、互いに話し合い成長していくというのが適切な進展なのでしょうが、中にはどうしようもない場合もあります。基本的にかつての教会や組織も、家も捨ててこちらへ来てもらったわけですから、やっぱり辞めてください、とは言いづらいのも確かです。そうなると、たぶん信徒のほうがその教会を去るということになるのでしょう。それは信徒のわがままのように見られることがありますが、信仰生活をそれなりに続けているならば、そう簡単にそんなことはするものではありません。よほどのことでありましょう。
 
さて、前置きが長すぎるのですが、上のようなモデルケースですが、それすら最近は怪しくなってきています。迎えようにも、次の牧師がそう簡単には見つからないということです。立派な神学校を出て、それなりに経験もあって、できればよい評判も聞けて、優しく、人をまとめるのがうまく、聖書を適切に上手に語ってくれる……そんな人が、そもそもどのくらいいるでしょうか。そして、いたとしたら、いまその人のいる教会が、その人を出すでしょうか。プロ野球で他のチームのエースや主軸打者を、簡単に招くことが、できるでしょうか。しかも教会の場合、そもそも新しい牧師のなり手自体が減っているのです。あげく、現在では相当な数の教会が、無牧状態です。あるいは、兼牧といって、ひとりの牧会者が複数の教会堂を巡って説教をする、というような有様です。この数字は、恐らく一般にクリスチャンが予想する以上に深刻な事態となっています。その意味では、現在9人しかいない高校の野球部のキャプテンが退部したとでも考えたほうが、イメージが近いのではないかと思います。
 
言いたいこと。もう、かつての教会のイメージを塗り替えなければならない時期なのではないか、ということです。すでにオルガンでないと礼拝音楽ではない、というような時代ではなくなっています。それでよいのです。礼拝はオルガンに限る、などと思い込んでいるのは、明治期に輸入された当時の欧米での伝統的なスタイルに過ぎないわけで、そもそも古代教会にオルガンなどありませんでした。音楽すら怪しいものでした。歴史の中で、礼拝のスタイルもずいぶんと変化しているのですが、日本の教会は、輸入された(と言う言い方がお嫌いでしたら、伝来した、宣教された、などと言い換えてももちろん構いません)時期の最初のものが正しいのだ、と思い込んでいる場合が多々あります。もっと言えば、個人が自身信仰に導かれて育ってきた環境こそが唯一正しいのであって、いま目の前に現れた新しいスタイルは間違っている、という評価が心理的に芽生えてしまうわけです。あるいは、それを押し殺しても、どうしても新しいものは自分になじまない、だからそれには参加しない、などというような。もちろん、新しいものがすべて良い、と言っているのではありません。そういう傾向があるのではないか、という反省点を提案しているだけです。
 
フルタイムの牧師がいつも教会に常駐していて、その牧師の生活を信徒が支える。このスタイルですら、本当にそれでしかないのかどうか、問われている、ということです。また、神学校を卒業していなければ牧師にはなれないとか、何年以上何々をしなければ牧師にはなれないとか、規則に規則を重ねて制度化しているようなあり方しかないのか、考えてみる必要がある、ということです。もちろん、聖書も知らないような人、心理学の内容に無頓着な人を簡単に牧師として立てることが良いとは思えません。しかし、神学校に何年行って何年修行して、みたいなことは、少なくとも聖書のどこにも書いてありません。聖書には、監督にはこういう人が、という、多分当時必要あっての注意書が、とくに牧会書簡には載せられていますが、そこに神学校などという規定は全くありません。そして古代もまたそうしたものだっだでしょう。時にいまよりも厳しい基準で選ばれていたこともあったでしょうし、カトリックだけの時代は、いまだと信じられないくらいの規律や掟に縛られていた可能性もあります。しかし、少なくともいま私たちが牧師に求めている資格や規定は、普遍的なものではないということだけは確かでしょう。
 
こうするのがよい、と私が決めるつもりはありません。ただ、「これまでこうだったから、これからもそうしなければならない」式の発想からの脱却が必要だと言いたいのです。すでに教育界でも経済界でも、そのような発想ではダメだということははっきりしています。霊的な信仰の世界には、変えてはならないものが確かにありますが、私たちは存外、変えて然るべきことを変えないままにしたり、それが当然だと思い込んでいたりするものです。企業だと統廃合が当然となっています。学校や大学も生き残りに必死です。だのに教会は、旧態依然としたスタイルを貫くことから抜け出せないで、気づけば滅びかけているというありさまではないのでしょうか。いやいや、老人のための信仰も大切だよ、という声もあり、その内容は嘘ではないのですが、それだけではやがて地上に聖書を信じる人間がいなくなるという事態を招くことにもなります。「伝えよ」は聖書にある基本的な教えです。旧約にも新約にもあるくらい、大切なベースです。それを、人間的な制度こそ尊く守るべきもの、と見誤っているだけになっていないか、私たちは自問自答していく必要があろうかと考えます。
 
いままで自分が経験してきたままの教会だけを今後続けようとしてやがて消えてしまいたいのか、それともキリストのからだとしての教会が、自分の知らないような姿で今後も続くことを願うのか。従来の「規則」からの束縛を一度一切解いて、聖書について、礼拝について、魂の配慮について、ラディカルに(根底的に)問い直す機会、それが、教会の変化の時です。牧師の交代は教会の危機だとも言われますが、それをむしろ強みにするチャンスでもあるのです。旧態依然に収まり、執行猶予期間を伸ばすだけなのか、改革して新しい希望の中を歩み始めるのか、それはその強みを活かすか殺すかの決断による、別々の道となるのではないかと思います。祝福の道か、呪いの道か、とまでは迫りませんが。



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